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コラム 堀江宏樹の葬儀文化史 presented by 雅倶楽部 2017年9月4日掲載

火葬は富の象徴だった?!時代の価値観で変わる葬儀式

現代では一般的な「火葬」も、『本当に焼いてしまっていいの?』という人が続出で根付くのに150年もかかっています。本記事では、土葬から火葬への変遷と、どのようなステータスの人々が新たな葬儀式を取り入れていったのかをご案内致します。

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現代日本ではごく一般的な葬送の一つである「火葬」。

仏教ではお釈迦様が亡くなった時、火葬されています。
日本に仏教が伝来したのは6世紀半ばとされますが、火葬の伝統がはじまったのはそれより150年ほど後。

「遺体を火で焼いて骨にしてしまう」という(仏教の)発想は、当時の日本ではかなり大胆に思えたため、根付くのに時間がかかったのでしょう。

家族の遺体を焼いてしまってもよいのかという迷いもすくなからずあったようです。


火葬は富裕層にしか許されない「特別なお見送り」だった理由とは?!

火葬は富裕層にしか許されない「特別なお見送り」だった理由とは?!

庶民は遺体を自然の中に放置する風葬をするか、上流階級は納棺して土葬にするということが一般的でした。

日本で最初に明確なカタチで記録されている火葬は西暦700年、「文武三月十日」のことで、道照という僧の遺言にしたがったものでした。

現在の奈良県・飛鳥の栗原というところで道照は火葬されました。ちなみに道照の遺骨は、弟子や親族が分配しようとして争ったということまでしかわかっていません。

それとほぼ時を同じくして、西暦703年、今度は持統天皇(正確には当時、太上天皇)が亡くなります。

彼女は天皇家の中で最初に火葬された人物ですが、火葬の儀式が実行されたのは亡くなってからなんと1年後。

……というか、当時は天皇の死から遺体の正式な埋葬まで長期間かかるのがむしろ「普通」であり、そういう天皇家における葬儀の伝統と、火葬という新しい習慣が融合した瞬間でありました。

この後、8世紀くらいから火葬は日本中に広まっていったとされます。
主に上流階級の間で、の話ですが。

火葬は富裕層にしか許されなかった、特別なお見送りの方法となっていきました。

それは火葬に使う薪が当時は非常に高くついたから。

平安時代後期からは経費の問題から薪ではなくワラを使う方法が上流階級の間でも一般化していきましたが、遺体を骨になるまで燃やし尽くせるだけの大量の薪を用意できる人は、富裕層に限られていたからなのです。

ちなみに現代でも天皇家の人々といえば土葬のイメージが強いかもしれませんが、持統天皇以来、多くの天皇が火葬で見送られました。

余談ですが、天皇家の人々が土葬となったのは徹底的に「仏教ぎらい」だったといわれる後光明天皇以降の伝統だといわれます。

火葬=仏教風のお葬式ということで周囲が判断した結果のようですが……。

ちなみに、天皇の遺体に点火するのは高位の貴族の役割です。

その後は貴族と僧侶が、交替で灰になるまで火の番をしていたそうです。葬儀のプロがいなかった時代ですからね。

歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹

現代日本においては「御遺体を火葬にするべし」というような法律は存在していない。

一方、土葬だが「土葬が認められている地域・自治体に限」って可能という制限もあるため、火葬・土葬の選択には地域差がある。

現代日本の天皇家の人々は御陵に土葬され。宮家の人々は火葬後、一般的なお墓に葬られることが多い(らしい)

イメージ

天皇ともなれば火葬後のお骨は「容器」に入れられ陵(みささぎ)に葬られるのが普通でした。

現在のわれわれにとって、骨壺といえば、「ああいうもの」というイメージがありますが、その当時、そういった共通の理解というようなものは何もありませんでした。

遺灰・遺骨を納める「容器」は故人の価値観で木製だったり、陶製だったり、金属製だったりしたようです。


貴族たちも同じように火葬にされましたが、彼らの場合は前回までにお話ししたように、平安時代当時の仏教徒の間では現代のように、いわば遺骨保管所としてのお墓を作ること自体が珍しかったのですね。

たとえば藤原道長などいわゆる摂関家の人々は、京都の木幡(こばた)という地域を墓所としていました。

摂関家では、このように墓所を定めることで一家の運勢が上がったと感じていたそうです。

平安時代の貴族の間では仏教信仰が盛んですが、このように人が亡くなった後は「◎回忌」というような法要もなく、それだけで葬送にまつわる法事はすべて完了というようなことがフツーだったのです。

当時、墓参り(墓所参り?)も一般的な行為ではありませんでした。

先祖供養という点では現代人の目にはごくあっさりしているように思えるはずです。

現代でも木幡では塚というには大きすぎる、古墳というには小さすぎるような土の盛りあがりが見られますが、そのどこに誰が眠っているかすら明らかではありません。

玉殿に安置?土葬と火葬の中間的な見送りの儀式も

玉殿に安置?土葬と火葬の中間的な見送りの儀式も

一般的な貴族は、遺体を土葬するか、火葬後の遺骨もしくは遺灰は一族の墓所に塚をつくって埋めるか、自然の中にばらまいてしまうのが普通でした。

ちなみに10世紀~11世紀頃の朝廷関係者を中心とした富裕層の間では「玉殿」と呼ばれる木造の霊廟を作り、その中に遺体を安置することが流行りました。

半月ほど放置したのち、建物ごと焼いてしまう決まりだったはずが、そうなるケースはむしろ珍しく、多くの場合は遺体を玉殿ごと放置したままだったとか……。

やはり遺体を燃やすことの抵抗感がまだ当時残っていたことがうかがえ、いわば土葬と火葬の中間点のようなお見送りだったのでは、と筆者には思われます。

名書家として知られる藤原行成という人物がいますが、彼には玉殿に納められていた父と母の遺体を両者の死後かなり経ってから火葬にし、その灰を鴨川に撒いたという話があります。

葬儀の中で、何に重きを置くかはその時代の価値観によって大きく変化するのでした。

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