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コラム 紫式部の「死」と「弔い」 presented by 雅倶楽部 2024年3月1日掲載

【源氏物語】「紫の上」が超絶スピード葬だった本当の理由

『源氏物語』において、光源氏から「愛されなかった妻」である葵上と、「最愛の妻」として描かれた紫の上・・・対照的に描かれた2人の死に様や葬儀について触れてみたいと思います。

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「紫の上」のスピード葬は愛ゆえに?!

葵上(あおいのうえ)と紫の上は、同じ陰暦8月中旬(現在の9月後半)に亡くなりました。

葵上は六条御息所の物の怪に襲われ、出産後の回復ができず逝去。26歳の若さでした。
しかし、現在のようなエンバーミング(遺体保存)のかわりに、数日にもわたって僧侶による蘇生儀式を受けていたため、遺体が腐敗しはじめ、無惨なことになったという記述が『源氏』にはあります。

それとは対照的なのが今回のお話の主人公である「紫の上(むらさきのうえ)」のケースです。
彼女は40歳で、「露が消えるかのように」ひっそりと亡くなりました。日付がハッキリと描かれているのは、『源氏』では異例なのですが、それは8月14日の夕方のことでした。そして15日早朝には早くも荼毘に付されています。

歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹

15日は、『竹取物語』のかぐや姫が昇天した日として当時、有名だったので、紫式部はそれに倣ったのかもしれません。

これは当時の上流貴族の常識に照らしても、異例のスピード葬でした。
この時、葵上の葬儀の様子を記憶している男性キャラクターのセリフが挟まれており、紫式部が葵の上と紫の上の死を意識的に対比し、読者に伝えようとしていたことがわかります。

それにしてもエンバーミングの技術がなかった平安時代、しかもまだ暑さが残る季節に、葵の上がなぜ死後3日も放置されていたかには、信仰上、あるいは慣習上の理由がありました。

身分の高い人々が亡くなると、最低3日は身体の外に飛び出してしまった魂を元通りの場所に戻すための蘇生の儀式が僧侶の読経によって行われ、それでも息を吹き返さず、遺体が腐敗しはじめたとあきらかになった場合、しぶしぶ京都・東山の鳥辺野(とりべの)に運んでから火葬にするというのが一般的な葬儀の流れだったことは指摘できます。

それなのに、なぜ光源氏が「最愛の妻」である紫の上の蘇生をあっさり諦め、すぐさま彼女の遺体を火葬にした理由には諸説あるようですが、六条御息所の生霊に襲われた形跡が明らかだった葵上に対し、紫の上は「まことに消えゆく露の心地して限りに見え」た……つまり、生命の火が燃え尽きてしまった自然死であることは明らかでした。
自然死した故人の蘇生は、当時の優れた僧の招魂技術でも難しかったようで、これが原因である可能性はあります。

また、葵の上を荼毘に伏す時期を見誤ったという苦い経験から、「最愛の妻」紫の上の遺体はせめて美しいままで荼毘に付し、その魂を昇天させたいという思いを光源氏は持っていたことも考えられます。

「紫の上」の出家を止めた源氏の後悔

亡くなる4年くらい前には、紫の上は明確な出家の意思をもっていましたが、源氏からは最後までそれを許可されませんでした。

光源氏は出家した女性には絶対に手を出さないことで知られますが、それは出家した女性とは男女の関係を結ぶことが道義上、許されないからです。

つまり、最愛の妻・紫の上に出家を許すことは、彼女を生きながらにして永遠に失うことにほかならないのです。すでに自分の老いに気づいている源氏は、以前よりもずっと孤独が恐ろしかったのでしょう。

紫の上が本当に亡くなってしまった後、源氏はパニックにおちいり、彼女の願いを聞き届けなかった自分の狭量さを後悔して「今からでも彼女の髪を下ろしたらどうか?」と家族に持ちかけ、息子の夕霧から「もう意味がない」と制止されます。

光源氏が亡くなった紫の上に対面することさえためらう中、夕霧は御簾をあげ、美しいままの彼女の死に顔を見つめました。夕霧なりの弔意であったと思われますが、当時では多少問題のある行動でした。

彼は光源氏の最初の正妻・葵上が生んだ子なので、紫の上とは血の繋がらない義理の母子にすぎません。当時の倫理では、本当に身近な人以外に顔を見せることは恥ずかしいことだとされていたので、義理の母親の無防備な顔を、義理の息子の視線に長時間晒すようなことは避けるべきなのですが、光源氏はそれさえ考えもつかぬほどに疲れ果てていました。

「理想の貴公子」として物語の中で褒め称えられてきた光源氏も50歳を目前としていたこの時期、ついに老いによる衰えが隠せなくなってきていたのです。

2人の死後、源氏が詠んだ対照的な二人の妻の最期

葵上の遺体が、腐敗の兆候をありありと示していたのとは対比的に、紫の上の遺体は髪の毛もつややかなままで乱れてもいない点が強調され、また、両者が火葬された際の煙についてさえも、葵上と紫の上はかなり違うように描かれています。

葵上の死後に詠まれた「のぼりぬる 煙はそれとわかねども なべて雲居のあはれなるかな(=葵の上の遺体を焼いた煙は空に昇り、雲と混じり合って区別が付かなくなったが、それ以来、雲という雲のすべてを見るとしみじみとした気持ちになる)」という源氏からの追悼歌からは、彼女の遺体を燃やした時、もうもうたる煙が出たことが推察されます。

その一方で、まるで露が消えるかのように儚く亡くなり、美しいままの姿で荼毘に付された紫の上の遺体を燃やした煙は「はかなく」、つまり量さえすくなく、それもすぐに消えてしまったようです。

この当時、火葬時の煙で、故人の本音を推し量る習慣が本当にあったかは不明ながら、葵の上と紫の上が、遺体を火葬する際の煙の状態でも対比されているのは興味深いですね。

紫の上は亡くなるかなり前から、自分は長くないと悟って仏道修行に励み、周囲の人々にもそれとなくメッセージを伝えていたため、この世への未練などはすでに消え、それが「はかなく」消える火葬時の煙の姿でも暗示されたようです。

逆に、そこまで深く愛し合えなかった感覚がある葵上を火葬にしたとき、その煙の立ち込め方が激しかったがゆえに、光源氏は長期間、彼女のために自ら読経したり、実際にはなかったと思われる愛の日々を詠んだ和歌を作り、葵の上の魂が、無念ゆえにこの世に残留しないよう、弔いつづけねばならなかったのでしょう。

対照的に、紫の上の葬儀後の光源氏は、法事の時を除いてまるで呆けてしまったような様子で、季節のうつろいの中に亡き妻の姿を見出し、折に触れては泣き暮らすだけでした。妻に対する標準的な服喪期間は3ヶ月でしたが、紫の上の時の光源氏は1年数ヶ月以上もの間、ボンヤリと過ごしています。

それを50歳を目前とした光源氏の老残ぶりを示す描写だと捉えられることも多いのですが、紫の上は無事に成仏できたとの確信が源氏の中にあったがゆえ、安心して自分の哀しみに源氏が浸れていたからと説明できる気もします。紫の上は、死してもなお、最愛の夫のことを思っていたということでしょうか。

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