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コラム 堀江宏樹の「偉人の葬儀費用」 presented by 雅倶楽部 2023年7月1日掲載

「山本五十六」の国葬費用は9万5千円?!現在貨幣価値にすると…(後編)

軍人、山本五十六の国葬を行うか否か…最終的な判断をするのは、昭和天皇その人であった。
なぜ昭和天皇は、国葬を行うことに疑問をもたれたのか。そして、結局執り行われた国葬は、敗戦に向かう日本にとってどういう意味があったのか…。平民出身「山本五十六」が国葬になった理由「後編」をお届けいたします。

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戦前の日本に存在した「国葬令」
そこには国葬の対象となる者、そして実施要領などが明文化されていました。しかし、戦後すぐに「国葬令」は事実上廃止されています。

1967年(昭和42年)の吉田茂元首相や2022年(令和4年)の安倍晋三元首相の国葬実施について、賛否両論が吹き出たのは、戦前のように明確な法令上の基準がないにもかかわらず、多額の国費を投入して国葬を営むことの是非が問われたからでしょう。

しかし、「国葬令」が存在した戦前の日本においても、国葬の実施には「異例」がつきもので、ときに天皇自身が疑問を感じながらも国葬が断行されたと思われる事例さえありました。それが前回からお話している、日本軍人・山本五十六の国葬です。

国葬の対象者は皇族・華族に限定されていたとよく語られますが、もちろんすべての皇族・華族の葬儀が国葬になったわけではありません。

「国葬令」にいう「国家に偉功ある者」とは、華族の爵位を授けられるほど、国家に対する貢献が大きかった者という意味なのですが、国葬とするかどうかの最終的判断を下すのは天皇であり、その一存だとされました。

しかし、戦前の天皇は「現人神」として神聖視されていたものの、政治的な意味での絶対君主であったとはいえず、多くの国葬が、臣下からの強い要請を受けて行われたといわれます。

1887年(明治20年)、元・薩摩藩主の島津久光の葬儀はそれまでの国葬のように東京ではなく、彼の地元にあたる鹿児島において営まれ、それでも国葬という異例の扱いになりました。

久光が国葬の対象者になった理由は、彼が維新に貢献したからだとされています。しかし、それは主に大久保利通や西郷隆盛など、久光の元・家臣たちの話であり、久光本人は、新政府ができたあとも反抗的な姿勢をとり続けていたのです。

それでも明治新政府内の勢力図を見ると、薩摩藩出身者と、長州藩出身者が二大派閥を形成しており、彼らの代表者として、それぞれの元・藩主の葬儀を国葬で営む必要がでてきたことがわかります。そして、そういう「事情」を天皇が承認させられているという、実に生臭い政治的なやりとりが、国葬の背景からは、すでに戦前の段階から、しばしば感じられるものだったのです。

山本五十六の死は、なぜ「作戦指導中」である必要があったのか?!

1943年(昭和18年)に、昭和天皇の承認を得て行われた山本五十六の国葬も、異例だらけだったといえるでしょう。

それは山本が戦前日本で行われた国葬の対象者のうち、唯一の平民であったことに始まり、本当に「国葬令」に定められた「国家に偉功ある者」といえる存在であったのかについても少なからぬ議論の余地があったからです。

また、当時、軍功によって華族に列せられた東郷平八郎の一例を除き、戦死した軍人は、国葬の対象から外すという取り決めが陸軍・海軍の間でなされていたといいますね。


山本の戦死を国民に告げた発表文を、彼の長男である義正はメモしており、それによると「全般作戦指導中、(山本元帥は)壮烈なる戦死を遂げたり」という表現がしてあったそうです。作戦指導中の「中」の文字には強調の傍点が打たれていました。

太平洋戦争中の1943年(昭和18年)4月18日の山本の死は、前線視察のため、飛行機での移動中に起きたことでした。原因は、アメリカ軍に日本軍の機密情報が漏れていたことで、待ち構えていた敵機からの攻撃を避けられず、山本の搭乗機は撃墜されてしまっているのです。

山本の死は、理想的な「英雄」の戦死の条件から外れる部分も多いのですが、軍関係者としては「英雄」山本の死は絶対に戦死であるべきで、それゆえ「中」の文字に強調の傍点が打たれてしまったと考えられます。

当時の軍部の価値観では、軍務中の死だけが軍人にとっての「名誉の戦死」にあたり、その他の死――たとえば訓練中の事故死などとは別ものだと考えられていました。

現在の茨城県土浦市の「霞ヶ浦海軍航空隊」において副長を務めていた時代の山本は、こうした価値観に違和感を抱き、戦死した軍人は靖国神社に祀られるのに、事故死で世を去った隊員たちの御霊を祀る神社がないことを憂慮していました。

霞ケ浦神社設立に山本が尽力したのはそれゆえで、国を思って亡くなった軍人の死はひとしく敬意をもって扱われ、また弔わねばならないという思想が彼にはありました。自分の戦死報告文を山本が読んだとしたら、なんともいえない気持ちになったことでしょう。

歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹

霞ケ浦神社…

建設途中に山本はアメリカに転任。終戦までは現在の茨城大学農学部の構内にあったが、GHQから破壊されてしまうことを恐れた有志が、同じ町内の阿彌神社敷地内に社殿の建物だけを移動させた。農学部の構内にはコンクリート製の台座や、石灯籠などの遺構が現存する。

昭和天皇による『山本元帥を国葬にしなければならないかね』という言葉の意味は?!

自分が国葬となったことを知れば、山本には大きな違和感があったかもしれません。

こうした法令上、そして慣例上の取り決めの多くが無視され、

「(昭和)天皇陛下に於かせられては、連合艦隊司令長官海軍大将山本五十六の多年の偉功を嘉せられ」

山本の国葬が決定するという異常事態となりました。

軍部から山本の国葬について強い要請があったのでしょうが、それに対し、昭和天皇が当初、疑問を隠さなかったという証言は興味深いですね。

国葬となった祖父・山縣有朋を持つ山縣有光は、この当時、昭和天皇の侍従武官をつとめていましたが、有光に向かって、天皇が「『山本元帥を国葬にしなければならないかね』と疑問を呈された」という証言が、杉田一次によって記録されています(杉田一次『国家指導者のリーダーシップ:政治家と将師たち』)。

山縣有光と杉田は士官学校、そして陸軍大学で同期でした。有光からすれば、親友にオフレコで発言した内容が、彼の死後、杉田によって活字化されてしまったようです。

杉田は、山本が「国葬令」に定められた「国家に偉功ある者」という資格を満たす人物ではないと強く考えており、「山本元帥は優秀な軍政家であったろうが、東郷元帥とは比較にならない。将帥は国家に勝利をもたらさなければ名将とは言えない」と、前掲書で述べています。

しかし、山本は日本がアメリカに勝てるなどとはまったく考えていませんでした。1940年(昭和15年)、近衛文麿首相(当時)から意見を求められ、

「ぜひやれと言われれば半年や1年の間は暴れてご覧にいれるが(それ以降は戦争を続けられるかどうかの保証すらできない)、2年、3年となればまったく確信は持てない」

とかなり率直な見解を述べています。

30代から40代にかけての時期を、アメリカにおける日本大使館付武官として過ごした山本は、同国の進んだ技術、文化に感嘆しています。そして日本とアメリカとでは、絶望的なまでの国力差があることを、その当時の日本人の誰よりもはっきりと理解していました。

アメリカとの戦争をなんとか回避しようとしていた山本ですが、何の運命のいたずらか、彼が開戦指揮をとることになった1941年(昭和16年)12月の「真珠湾攻撃」は成功に終わりました。

日本国民の間で山本五十六の知名度は急上昇し、国民的英雄となったのも本当につかの間、1942年(昭和17年)6月の「ミッドウェー海戦」において日本軍は大敗してしまいました。

しかし、結局、日本軍を勝利に導くことができなかった山本五十六という軍人に「なぜ」、天皇から国葬が贈られる事態になったのでしょうか。

戦況の悪化を国民に認識させるために山本五十六の国葬は行われた?

山本の長男の義正は、山本の国葬が

「国民のあいだに最初の戦勝ムードが広まっているときに、戦局の苛烈さ、前途の楽観できぬ現実を、如実に国民に示すための、またとない象徴的な機会であったようだ(山本義正『父 山本五十六』)」

と述べ、山本の国葬は、日本国民に戦局の悪化を認識させるためのきっかけとなるように政府・軍部から期待された結果、行われることになったのでは、と推理しています。

また、軍部から山本の国葬を強く要請された昭和天皇が疑問を感じながらも、最終的に同意したのは、天皇と山本義正の現状理解に、身分や年齢を超えて、近いものがあったからではないか……と筆者には思われてなりません。国民そして政府・軍部は、この戦争を続けることの無意味さにこの時、気づいているべきだったのですが。

それでも当時の日本人の多くは、直近の「ミッドウェー開戦」の敗北を意識的に無視し、「真珠湾攻撃」の成功にいまだに酔いしれているところがあり、好戦的な大本営発表やマスコミが実体のない「イケイケドンドン」の空気を作り上げてしまっていたのです。

軍部は、日米開戦時の立役者である山本五十六という軍人を、国葬に値するほど偉大な人物だったと祀り上げ、雑誌や新聞、映画などでしきりに取り上げさせています。山本の国葬の映像はニュース映画として日本全国に流布し、こうした軍部のメディア戦略によって、素朴な人々は「これからの戦争で山本元帥の仇(かたき)を討つ!」などと盛り上がりました。

しかし、そうした感情論を離れ、冷静に事態を概観してみると「半年や1年の間(だけ)は(アメリカに対して)暴れ」られるという山本の予言は見事に的中しているのです。
実際、彼の戦死からまもなく、アッツ島玉砕が報じられ、日本軍が一歩一歩、完全敗北に向かっている厳しい現実を無視することはできなくなりました。山本五十六の戦死、そして国葬は、本当に一つの時代の転換点だったのです。

余談ですが、国立公文書館所蔵の「故元帥海軍大将山本五十六葬儀書類」を見ると、山本の国葬費が9万5千円だったことがわかります。

日本銀行が発表している企業物価指数で換算すると、昭和18年の1万円=現在の420万円ほどにあたるので、当時の9万5千円は、現在の3990万円相当だったようです。

過去のコラムで取り上げた、他の国葬対象者の葬儀費用に比べると、若干、お安く感じてしまうのですが、これは満州事変が勃発した昭和6年(1931年)から、昭和20年(1945年)までの約15年間の戦争の結果、日本円の価値は5分の1にまで低下した事実の反映でしょう。太平洋戦争末期の物資難を象徴した数字でもあろうと思われます。

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