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コラム 堀江宏樹の「偉人の葬儀費用」 presented by 雅倶楽部 2023年1月9日掲載

「岩倉具視」の国葬は3万円!現在価値でどのくらい?

大久保利通に続いて国葬が執り行われた「岩倉具視」「島津久光」「三条実美」「有栖川宮熾仁親王」の4人にクローズアップし、時代背景、市民の様子、葬儀にかかった額などに触れてみたいと思います。

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事実上の最初の国葬とされる大久保利通 (前話『【死後3日・予算2億円】「大久保利通」の国葬がスピード決済された本当の理由とは?!』をご参照ください) 以来、先日の安倍晋三元総理まで、国葬が実施されたは全29人だとされます。

ちなみに、この数え方には、前回にお話した、国葬並の待遇を受けた大久保をはじめ、戦後、吉田茂首相(当時)の考えで、戦前の例のように国葬(=大喪)にはならなかったものの、大喪に準じる「大喪儀」が行われた貞明皇后(=大正天皇の皇后)の2例も含まれていますが。

歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹

また、全29回の国葬のうち、日本の皇族が12回、韓国の皇族が2回の合計14回が含まれていることも興味深いです。1910年の「韓国併合」以降、李氏朝鮮の皇族たちは日本の東京で暮らすことになり、日本の皇族に準じた「王公族」という身分を与えられていました。そして「王公族」の当主の葬儀は、国葬とされていたのです。

戦後は天皇だけが国葬(=大喪)の対象者ですが、戦前では先述のとおり、皇后(皇太后)も「大喪」の対象でしたし、軍人として活躍していた皇族のうち、とくに勲功があったとされた方々も高い確率で国葬の対象となっています。

前回取り上げた、大久保利通の(実質)国葬は求心力低下が見られた明治新政府の強い要請によって実現したものでしたが、その後、国葬を決定してきたのは君主である明治天皇の意思でした。戦前の日本、とくに明治期の社会において国葬は、故人の国家に対する勲功を天皇から認められ、それによって天皇から賜る”最高の特権”だったといえます。

「岩倉具視」の国葬…服喪のために3日間政務停止

大久保の次に国葬となったのは、倒幕、そして王政復古実現のためには手段を選ばず、暗躍を繰り返した岩倉具視です。

明治16年(1883年)7月20日、岩倉は食道ガン(あるいは咽頭ガンという説も)で亡くなりました。ドイツから来日したベルツ医師から、日本で最初にガン患者として余命宣告を受けたのが岩倉で、死の前日まで憲法に対する自身の意見を口述させるなど、積極的な働きを見せていました。

明治天皇にとって、岩倉は大恩人にあたる人物です。
彼の献身なしに「維新の大業」を成し遂げることは難しかったという天皇の感謝の念は強く、死病をケガレとみなす神道の伝統をものともせず、瀕死の岩倉を2回も見舞いました。
そして、彼が亡くなるとすぐさま太政大臣の位を与え、彼の葬儀を国葬とする決定も天皇が行いました。この時、国をあげて岩倉の死を悼むべく、「廃朝」つまり国をあげてすべての政務を三日、服喪のために停止することも天皇の意思として決まりました。

岩倉の国葬の際のドレスコードは、身分の高い役人の類には宮廷行事用の礼服に相当する「大礼服」の着用が義務付けられた一方、それを持っていない層、つまり庶民ではあるが岩倉公に弔意を示したいという層にも参列が許されており、それによると豪華な礼服などない庶民の場合、通常の黒色の喪服でもよいというお達しが出ていました。当日、会場には和服より、洋服の黒い喪服を着たハイカラな層が目立ったそうです(『明治人のお葬式』)。

また、安倍前首相の国葬と比べると、かつての国葬が国民生活に与える影響はすさまじく大きかったことがわかります。国葬日は岩倉の死から5日後の7月25日、国葬費は三万円(現在の貨幣価値で約三億円)で、全額国庫負担でした。

薩摩藩の最高権力者「島津久光」の国葬

続いて国葬となったのは明治20年(1887年)12月6日に亡くなった島津久光です。彼は「幕末の薩摩藩における事実上の最高権力者」で、皇女・和宮と十四代将軍・徳川家茂を婚姻させ、天皇家と徳川幕府を協調させる「公武合体」を推進したことでも知られ、明治新政府においては内閣顧問、左大臣といった要職を歴任していました。

ただ、島津の葬儀が国葬に決まったのは、彼の元・部下たちである旧・薩摩藩士たちに多かった維新の立役者たちの声が強かったからではないでしょうか。島津久光の国葬費は「四萬圓(『新聞集成昭和編年史』第9号)」で、全額国庫負担でした。

ちなみに久光が旧・薩摩藩を代表する人物だとすれば、旧・薩摩藩士と二分する形で明治の政界を牛耳っていた旧・長州藩士たちの声を反映したのでしょう、明治29年(1896年)、旧・薩摩藩主だった毛利元徳も国葬になっています。

もちろん天皇の意思が反映されていなかったとはいえないでしょうが、自身の所属する政治的なグループの格付けを目的とした一大行事=国葬という考え方はすでに政界に定着していたようですね。

公家出身の行動派「三条実美」の国葬

さて、島津の次に国葬となったのは、明治24年(1891年)に亡くなった三条実美でした。大河ドラマなどでは岩倉具視が清濁併せ呑む実力者として描かれることが多いのに対し、三条実美は高い身分に生まれた理想派の公家ではあるが、打たれ弱い人物とされていることが多いようです。

しかし、明治天皇は行動派の三条を非常に尊敬しており、岩倉の時と同じように、危篤となった彼のもとを訪ね、直々に「正一位」の官位を授けています。
亡くなると功臣の官位は上昇しうるものですが、生前に臣下最高の官位である「正一位」を授けられたのは、久安2年(1146年)の源方子の例以来、なんと745年ぶりのことで、しかも今回は天皇から直々に官位をいただけたと、瀕死の三条は感涙にむせび泣きました。

三条が6日に亡くなると、天皇は当然のように彼を国葬とする決定をしました。当時、新政府の官僚だった尾崎三良男爵によると「三条公葬儀は所謂国葬にて、宮内省より葬儀掛十数人命ぜられ、入費は悉皆国庫より支弁し、外に祭祠料として帝室より一万円下賜なり、是にて万事を支弁したり(『尾崎三良自叙略傳(第1巻)』)」とあり、国葬費については筆者が文献を漁った中では見つけることができませんでしたが、おそらく4万円程度に収まるお金であったのではないでしょうか。

宮内庁の役人が取り仕切った行事であったこと、「祭祠料として帝室より一万円下賜」という尾崎三良の記述からは、国葬が天皇から臣下が賜る恩典のひとつであったことがよく伝わると思います。岩倉に引き続き、3日、国家機能が停止する「廃朝」が行われたとの記述もありました。

和宮の元・婚約者「有栖川宮熾仁親王」の国葬

三条の次の国葬は、有栖川宮熾仁親王の葬儀でした。歴史ドラマの類では和宮の元・婚約者としてだけ描かれることが多い熾仁親王ですが、史実では幕末以来、軍人として明治天皇に尽くした方です。

熾仁親王が国葬となった、最初の皇族であることは明記してもおいてよいでしょう。熾仁親王が亡くなったのは明治28年(1895年)1月15日。日清戦争において参謀総長となった熾仁親王は広島に赴いたものの、当地でチフスを発症し、それが死因となりました。国葬は遠隔地で親王が亡くなったこともあって1月29日で、豊島岡墓地に埋葬されたとのこと。

国葬費については「歳出臨時部国葬費(有栖川宮の国葬費)二万円(坂入長太郎『日本財政史研究』第2巻)」だそうです。2万円といえば、岩倉具視などよりも低額であることが注目されますが、国葬費の大小については、単純に身分の高低とは関係がないのかもしれません。どういうやり取りを経て決定するのかは資料上、よくわかりませんでしたが、興味深いというしかありません。

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