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コラム 堀江宏樹の「偉人の葬儀費用」 presented by 雅倶楽部 2023年2月1日掲載

8億円かけた山県有朋の国葬はなぜ一般参列者に不人気だったのか?

黒地の礼服であれば参列できた岩倉具視の国葬とは打ってかわり、
伊藤博文の国葬では燕尾服の着用が義務付けられました。ドレスコードを厳格化した裏には何があったのでしょうか?!

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明治期の日本では、権力者が亡くなると、天皇から生前の功績をねぎらうための「恩典」として与えられるものだった国葬。国葬の伝統自体はその後も長く続いていったものの、明治末期以降、性質が少しずつ変化を見せていきました。

明治42年(1909年)に朝鮮半島において暗殺された伊藤博文の国葬の詳細については『入場拒否続出!なぜ暗殺された「伊藤博文」の国葬のドレスコードは洋装になったのか?』をご参照ください。

しかし、戦前日本では、政府関係者ではない一般人でも、国葬に参加可能であった点は興味深いといわざるをえません。その方針は暗殺死を遂げた伊藤博文の国葬でも踏襲されています。令和4年(2022年)の安倍前首相の国葬では「招待状」なしに参列はできず、それ以外の方には記帳のみが許されるというシステムでしたが、ある意味、戦前のほうが「民衆に対して、国葬は開けていた」のは意外といえるかもしれません。

しかし、伊藤の国葬では、一般からの会葬者が会場に入ることができないというトラブルを多発させてしまいました。かつての岩倉具視の国葬では、「黒地の礼服であればよい」という程度だったドレスコードが、伊藤の国葬では、かなり厳格化されていたのです。

男性には、当時、まだ珍しく、値段も高額であった燕尾服の着用が義務付けられており、それまでの国葬のようには和装の喪服姿の人々の参加は認められず、彼らは門前払いを食らってしまったのです。ここにはドレスコードを厳格化することで、参列者を減らすウラの目的があったのかもしれませんが……。

明治天皇の「大喪」は現在貨幣価値で150億円?

台湾日日新報

大正元年(1912年)9月13日には、明治天皇の「大喪」が行われています。内容については情報が膨大すぎるので、またの機会に触れるとして、この時の費用が一説に当時のお金で「150万円(=現在の150億円)」と、桁外れだったことはお話しておきましょう。

前回、明治28年(1895年)の有栖川宮熾仁親王の国葬の費用が2万円であり、大正12年(1923年)2月4日に実施の伏見宮貞愛親王の国葬費は10万円だったことを考えても、桁外れの巨額が明治天皇の大喪で費やされたことは、明治天皇のカリスマ性の高さと比例していると考えることができるでしょう。

なお、大正8年(1919年)3月3日に行われた、元・李氏朝鮮の皇族(≒王族)であり、当時、日本で「王公族」の身分を与えられ、「徳壽宮李太王」と呼ばれていた李熈の国葬費も10万円とされています。しかし、日本で行われた彼の国葬には元国王を慕う朝鮮人の参列者はわずか70名しかありませんでした。

これには理由があり、日本政府が例によって黒スーツに黒ネクタイといった西洋風の喪服を強要し、韓国での伝統的な白の喪服が許されなかったことへの反抗心が原因だったといわれています。朝鮮半島の伝統的な王陵で行われた李太王の「内葬」に参礼した朝鮮人は7000名を数えたのに、実に寂しい参加者の数字になってしまいました。

この時、日本人の参列者とは正確にはいえないまでも、「李太王殿下の国葬拝観者」は「五十万人」といわれています。

一般参列者にボイコットされた山縣有朋の国葬

参列者という点で、もっとも面白い逸話があるのは、大正11年(1922年)2月9日に行われた山縣有朋の国葬です。

山縣は明治初期、ヨーロッパの国々を参考に「徴兵令」を日本で制定し、その後は日清戦争の第1軍司令官、日露戦争では参謀総長を歴任した軍人畑の人物です。

大臣や首相も経験し、最終的には「元帥陸軍大将」の肩書を得ています。山縣の国葬費は8万円(約8億円)と、他の国葬となった者と比較してもかなりの巨額となったものの、国民からの山縣の人気はきわめて低く、国葬には勲章つきの制服姿の軍部や警察関係の参列者だけが目立つありさまでした。

どれくらい不人気だったかというと、一般からの参列は1万人以上を想定したスペースにわずか数百人が来ただけで、ときの大臣ですら欠席するほどの有様でした。

マスコミからは、

「(会場は)ガランドウの寂しさ」
「民(衆の弔意)抜きの国葬」


と叩かれる始末に終わりました。
肩書ではなく、民衆から慕われていない人物を国葬にすると、逆に権威が低下するという事例といえるかもしれません。

歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹

民衆から慕われていない(山形有朋)

山縣はその生涯を通じて、決して人から好かれるタイプの人物ではなかった。「慎重な性格」といえばそうなのだが、簡単に人を信用しない山縣は、民主主義というものをあまり重んじず、大衆にアピールする力にも欠けていた。このため、身内主義・秘密主義の反動保守派であると理解されてしまっていた。
金に汚いという世評が定着しすぎていたのも、致命的だったといえる。幕末の長州藩での奇兵隊時代、すでに部下たちの給料の一部を横領していたという噂がある。

山縣有朋といえば、伊藤博文と同じく、松下村塾の関係者であり、安倍元首相のお膝元である長州(=現在の山口県)出身ゆえに、安倍元首相にとっては「大先輩」といったところでしょうか。

安倍元首相の国葬における菅前首相の「追悼の辞」に出てきた「衆議院第1会館、1212号室の、あなたの机には、読みかけの本が1冊、ありました。岡義武著『山県有朋』です」という一節から、山縣はより高い知名度を獲得したと思われます。

菅前首相は、テロで命をおとした「長年の盟友、伊藤博文」に対し、山縣有朋が贈った歌「かたりあひて 尽しし人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ」を追悼の辞の末尾で引用し、会場の涙を誘ったそうです。

しかし、史実の山縣と伊藤は「盟友」というより「ライバル」、もっというと「犬猿の仲」だったといってもよい関係でした。

誰しも自分の葬儀を見ることはできませんが、同じ国葬という区分で送られたにせよ、大勢の人を集められた伊藤に対し、ほとんど人が来てくれなかった自分の葬儀を山縣が、もし見ることができていたのなら、嫉妬のあまり、おかしくなってしまったかもしれません。

前年、山縣と同じ日比谷公園で行われた大隈重信の葬儀には一般参列者が30万人、山縣とほぼ同時期に行われた原敬の葬儀にも3万人が集まったそうです。数百人しか一般客を集められなかった山縣のメンツは、国葬だったがゆえに、より大きく潰されてしまったといえるでしょう。

本人の意志に反して国葬になってしまった西園寺公望

本人の意思に反して国葬になってしまうケースもありました。昭和15年(1940年)12月5日に国葬になった西園寺公望の例です。高位の公家の家に生まれながら、明治維新の志士として活躍した西園寺は長命で知られました。

しかも頭脳は亡くなる直前まで明晰で、隠居を公言した後も、近衛文麿首相のご意見番を勤め(西園寺は近衛の優柔不断さに呆れ、すでに見放していたようですが)、「最後の元老」として政界に隠然たる存在感を持ち続けました。

生前の西園寺は「おれは死んでも坊主や神主の世話にはならぬ。国葬も辞退したし」と語っていたにもかかわらず、他ならぬ近衛文麿が葬儀委員長となって国葬が実施されてしまっているのは運命の日肉と呼べるでしょうか……。

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