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コラム 堀江宏樹の「偉人の葬儀費用」 presented by 雅倶楽部 2023年8月1日掲載

【分析】国葬対象になった「皇族」…全員にあてはまる2つの共通点

「有栖川宮熾仁親王」「北白川宮能久親王」…など、いわゆる”宮さま”が国葬の対象となる基準は特段の定めもなく、実はあまりよくわかっていません。
当記事では、国葬対象になった皇族の2つの共通点に着目し、それぞれの皇族がどのような経緯をたどり国葬にいたったのかを分析、紹介いたします。

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戦前日本の国葬対象者には、2種類ありました。

まず、天皇皇后両陛下など、高い身分を理由として、その葬礼は国葬になると法的に決定している存在。そして、国家に対する業績が特に高く、国葬の名誉に値すると天皇から判断された存在の2種類です。

戦前の国葬対象者は皇族と華族に、ほぼ限定されていますが、皇族の場合でも、どのような理由で国葬の対象者に選ばれたのかは、実はあまりよくわかっていません。

国葬の経費としては、議会からの承認を受け、国費として10万円前後が支出されることが通例だったようです。皇族の国葬については、天皇の特旨(=特別な思し召し)に異論が挟まれた形跡はほとんど見当たりませんでしたが、具体的にどのような業績を上げていれば、国葬の対象となったのかという目安は、かなり曖昧だったというしかありません。

戦前、天皇の特旨を受け、国葬となった皇族がたとその国葬費については、以下とおりです(とくに記載のない場合、情報の出典は国立公文書館所蔵の各種史料から)。

1895年(明治28年)1月29日有栖川宮熾仁親王
「明治27年度歳入歳出総予算に於て歳出の追加を要する金額は2万円とす是れ有栖川熾仁親王殿下薨去に付国葬費の支出を要するに由る」
1895年(明治28年)12月18日北白川宮能久親王
「今般北白川宮殿下薨去の処国葬被仰出候に付右葬儀に関する費用として2万5000円臨時支出」
1903年(明治36年)2月26日小松宮彰仁親王
「小松宮殿下薨去せられ国葬被仰出候に付其費用金3万円」
1913年(大正2年)7月17日有栖川宮威仁親王
「金5万円 国葬費 元帥海軍大将威仁親王殿下薨去に付国葬費支出を要す」
1923年(大正12年)2月14日伏見宮貞愛親王
「貞愛親王の葬儀は、国葬を以て大正十二年二月十四日小石川区豊島岡葬場にて厳かに行はれ、その国葬費は十万円であった」
石田文四郎『新聞記錄集成大正大事件史』より。
1945年(昭和20年)6月18日閑院宮載仁親王
「国葬費十三万五千円」。高石末吉『覚書終戦財政始末:昭和20年度と21年度の予算編成』より

※宮さま方ごとの記載年月日は国葬の最終日にあたる「斂葬の儀(=埋葬の日)」を指しています。

歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹

国葬費も物価上昇を如実に反映している点は興味深い。

他に注目すべきところとしては、国葬費を記載する書類に定形のフォーマットがあるわけではなかった点だ。伏見宮貞愛親王と閑院宮載仁親王の国葬費は、「なぜか」公文書の中では見つけづらかった点については、公文書館所蔵の史料で、山本五十六元帥の国葬費がすぐに判明したことと比較すると、皇族の国葬はより特別な国葬であるため、費用などは曖昧にしたいという書き手の考えを反映している結果かもしれないと感じた。

これは、大正後期以降に見られた、皇族のことさらな神聖化が反映されているのかもしれず、個人的に興味深かった。大正天皇皇后、後の貞明皇太后は、皇族という存在が以前よりも祭り上げられすぎており、慈善活動などが気軽に行いにくくなったという不満をお持ちだったという。

国葬対象となった皇族方のすべてが軍人であり、陸軍もしくは海軍において要職を歴任したことも指摘できます。明治時代以降の男性皇族は、病弱などの理由がない限り、陸海軍のどちらかに必ず入隊し、軍人として生涯務めることが義務付けられました(この義務が皇族男性の平均寿命を短くしたという指摘さえあります)。それでも皇族軍人の存在は、時代の要請を強く受けたものでした。

皇族軍人を切望…「西園寺公望」による理想論

昭和12年(1937年)、明治維新以降、天皇家や政府関係者に隠然たる影響力を保ちつづけた西園寺公望が、側近の原田熊雄に語った以下の言葉に、皇族軍人を当時の日本が切望した背景がまとまっていると思われるので、引用します(『西園寺公と政局 5』)。

「皇族が軍職に就かれるといふことは、まさかの時にやはり軍が陛下の軍隊であるといふやうになるためである。謂はば常に陛下のお味方であるといふことが皇族さん方の建前である」

「いろんな場合にやはり陛下の思召――いはゆる大元帥(=天皇)の統率の下に御意思の通り動き易いやうにされることが、いはゆる皇族方が軍職にあって陛下に忠節を尽される所以(ゆえん)である」


しかし、これは所詮は“美しい理想”にすぎません。
天皇からの評価がかならずしも高くはなかったと考えられる皇族方でも国葬の対象になっているからです。

たとえば、死の前後、軍務上の失態を繰り返し、昭和天皇からの評価が著しく下がっていたとされる閑院宮載仁親王にも国葬の名誉が「なぜか」与えられているなど、国葬対象者の選別基準には疑問が残るケースも含まれているのです。

天皇による国葬選考基準は公開されていない、いわば「ブラックボックス」のままで(遠い未来、過去の天皇の日記などが公開されることがあれば、国葬の基準などについての記述があるかもしれませんが)、現況では歴史学者たちの考察対象にもなりづらく、研究などもあまりなされていないようでした。

しかし、なかなか興味深いテーマではあるので、「なぜこの皇族が国葬対象者に選ばれたのか」という隠された部分を、対象となった皇族方の業績をもとに筆者なりに分析してみようと思います。

皇后や皇太后といった、特別に高い身分をもって国葬(に相当する、大喪儀の)対象者となった女性皇族以外、国葬となった皇族のすべてが男性で、軍人でした。それ以外にも、一定のルールと呼べるものが2つあるようです。

  1. 皇族軍人として高い功績があること
    例)戊辰戦争において重職を務めた有栖川宮熾仁親王、小松宮彰仁親王など。また、外地(台湾)で”戦死”した北白川宮能久親王
    在職中に、日本軍における最高位の階級・称号である「元帥」の身分を得ていることや、天皇と軍部を結ぶ、「参謀総長」となっていることなども、絶対とはいえないのですが、国葬対象者に選ばれる有力理由として指摘できるでしょう。
  2. 天皇の師匠だったこと
    例)大正天皇にとっての有栖川宮威仁親王、昭和天皇にとっての閑院宮載仁親王
    軍人としての功績や、亡くなる直前の天皇からの評価より、むしろ過去に天皇の師匠的存在であった点のほうが強く評価される傾向が強いようです。これは興味深いですね。

それでは国葬の対象者となった全6人の皇族がたの経歴と、彼らが国葬となった理由を分析していきましょう。まずは皇族における、最初の国葬対象者となった有栖川宮熾仁親王です。

有栖川宮熾仁親王(1835ー1895)

最終的には第14代将軍・徳川家茂の御台所となった和宮と、婚約していたことで知られる有栖川宮熾仁(ありすがわのみや・たるひと)親王。

今日でも「有栖川流」などの書道の流派に名を残す書の名手であり、文化人として知られる方ですが、幕末・明治期においては、軍人として雄名を轟かせました。

幕末期の熾仁親王は自ら志願して「東征大総督」となり、倒幕軍のトップとして東海道を下り、西郷隆盛らに支えられ、江戸の地に向かっています。

その後も、軍関係の要職にありつづけた親王への明治天皇の信任は厚く、亡くなる直前まで参謀総長として天皇に仕えつづけました。

重病であった熾仁親王としては一日も早く、参謀総長の職を退きたい、国家のために退くべきだとの意思を天皇に提出していたものの、当時は日清戦争のさなかでした。そういう事情もあり、「せめて明治29年(1896年)までは、参謀総長の座にあってほしい」と遺留されているうちに非業の病死を遂げてしまいます。

歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹

日清戦争

1894年(明治27年)7月25日から1895年(明治28年)4月17日にかけて日本と清国の間で行われた戦争である。一説に完全な終戦は台湾の平定を終えた1895年11月30日とする見方もある。

熾仁親王の葬儀が国葬となった理由は、先述の通り、天皇の片腕といえる参謀総長を長年務め続けるなど、軍人としての高い功績があったこと、そして、幕末から明治後期にいたるまでの長期間、明治天皇の最側近として、深く信頼されつづけていたことなどがあげられるでしょう。

ちなみに、戦前の日本で、参謀総長を勤めた皇族は3人だけですが、その方たちすべてに国葬の名誉が与えられています。たとえその方が亡くなる直前に、天皇からの評価を大きく落とすようなことがあっても、国葬となっているのですが、その理由を次回は推理したいと思います。

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