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コラム エピローグ <偉人たちの最期> presented by 雅倶楽部 2023年12月1日掲載

徳川四天王「本多忠勝」の末路

数多の戦(いくさ)において「かすり傷1つ負ったことがない」と言われる本多忠勝。
徳川家康の最側近「四天王」の1人でもあった名将は、家康への忠義ゆえに死を前にして意外な言葉を発したとか。本稿では、忠勝の晩年と死について迫ります。

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酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、そして井伊直政。

「天下人」徳川家康の最側近である4人の偉業を讃え、人々は「徳川四天王」という名で彼らを呼ぶようになりました。「四天王」の呼称が生まれた時期は定かではありませんが、慶長5年(1600年)、「関ヶ原の戦い」の勃発以前の段階で、徳川家の関係者の間ではすでに使われはじめていたようです。

数多いる功臣たちの中で、この4人が特にクローズアップされているのは、仏様を守る4人の神様である「四天王」に、家康の天下取りまでの険しい道のりを支え続けた重臣たちの姿をなぞらえたからでしょう。

しかし、その全員が、家康よりも早くに亡くなりました。それどころか、家康が宿敵・豊臣家をついに滅ぼし、名実ともに「天下人」となった慶長19年(1614年)から翌年にかけての「大坂の陣」に参加できた「四天王」は皆無でした。それ以前に「四天王」の全員が亡くなってしまっていたのです。こうした事実は案外、知られていないでしょう。

家康との関係が、晩年には悪化していた噂が根強い「四天王」も意外に多く、NHK大河ドラマ『どうする家康』では決して描かれることがないであろう、彼らの謎めいた晩年と死について追ってみることにしましょう。

まず取り上げたいのは、かなり個性的な辞世を残した本多忠勝です。

歴戦の勇者でありながら、最後までかすり傷一つ負ったことがないといわれた本多忠勝は、「徳川四天王」の中でも最強の槍の使い手でした。

忠勝愛用の「蜻蛉切(とんぼぎり)」とは・・・

本多忠勝愛用の槍は、「蜻蛉切(とんぼぎり)」と呼ばれる名槍(めいそう)です。

槍の刃に止まったトンボが真っ二つに裂けたという逸話があるほど鋭利な槍だったとされますが、忠勝は戦や年齢によって、この「蜻蛉切り」の柄の長さを変えさせました。これは戦国時代では、かなりの異例だったようです。

槍は接近戦で効果を発揮し、敵の心臓めがけて一撃!……という武具なのですが、柄の長さを変えることは厳禁とされました。
長さをいたずらに変えてしまえば、自分と敵の距離が掴みにくくなり、そうした微妙な感覚の変化が戦場では命取りになるというのが、「常識」だったのです。

しかし、槍の真の名手である忠勝は、「常識」などにはとらわれず、槍を短くすることも厭いませんでした。興味深いのは、年齢が高くなればなるほど、彼の槍が短くなっていった事実です。

長い槍は、比較的遠くにいる敵も狙えるので、敵からの反撃を受けにくいという意味で安全性が高くなりますが、その反面、槍自体は重くなりますし、それを扱うためにはかなりの体力が必要となってきます。

一方で、槍の柄を短くすればするほど、軽くなり、取り扱いも容易となるのですが、敵とはさらなる接近戦を強いられ、自身も傷を受ける危険性が増すのです。

それでも槍をあえて短くしたという忠勝の逸話からは、彼が老化による体力の低下を受け入れつつも、精神力でそれを補おうとしたと推測できるような気がします。忠勝が凄まじい集中力を発揮し、気迫に満ちた戦い方をしていたであろうことは間違いないでしょう。

また、戦国時代の鎧の常識を遥かに上回る60キロもの鎧をまとっていた井伊直政に対し、忠勝の鎧はかなりの軽装でした(『常山紀談』)。忠勝はとにかく「動きやすさ」という点を戦場では重視していたようですね。

63歳で永眠・・・その最期の言葉は?!

天正18年(1590年)、家康が関東に入国した際、忠勝は上総国・大多喜(現在の千葉県夷隅)に10万石の領地を与えられ、大多喜城を居城とすることになりました。

武断派の忠勝に家康が手を焼き、家康の本拠地となった江戸から若干遠くに配置したと見る人もいますが、『近古史談談義』という史料によると、瀕死の忠勝を、子供たち二人が見舞い、遺言を聞こうとした際、忠勝は「死にたくない」以外に言い残すべきことなどないと断言しました。

名だたる武将である忠勝が、死を前にして「死にたくない」などと漏らすのは意外だったのでしょう、子供たちは「生まれた者は誰しも死ぬものです」と、たしなめようとしましたが、忠勝は「筆と紙を持って来い」といって、「死にともな あら死にともな 死にともな 御恩を受けし 君をおもえば」という辞世を書きつけて見せました。

「死にともな」とは、「死にたくない」という意味の当時の口語で、三回も「死にたくない」と繰り返した上に、「死ぬわけにはいかない、なぜなら家康公から受けたご恩を返せていないのだから」という意味の下の句につなげているのです。子供たちは、死の直前になっても忠勝が家康に忠義の心を燃やしているという事実にやっと気づいたのでした。

慶長12年(1607年)ごろから忠勝は重い眼病を患っており、失明寸前だったそうです。それゆえ嫡男に当主の座を譲り、隠居の身になっていましたが、「たとえ武勲を上げることができなくなっても、主君と枕を並べて討ち死にする覚悟で戦に挑むものだ。それが侍としての道である(意訳)」と遺言したとする史料もあります。

慶長15年(1610年)10月18日、本多忠勝は数え年63歳で永眠しました。

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