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コラム エピローグ <偉人たちの最期> presented by 雅倶楽部 2019年11月2日掲載

教科書から消える「聖徳太子」…存在しなかったってホント?! <無念の死を遂げた皇子たちの最期>

その聡明さゆえに無念の死を遂げた『皇子(おうじ)』たち。世が世ならば次の天皇とされた彼らに一体何が起きたのか?
本稿では、悲劇のヒーロー「有馬皇子」「大津皇子」「聖徳太子(厩戸皇子)」の最期をご紹介いたします。

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有馬皇子

元暦校本万葉集
ReijiYamashina [CC BY-SA 3.0], ウィキメディア・コモンズ経由で

有馬皇子「岩代(いはしろ)の 浜松が枝(え)を 引き結び 真幸(まさき)くあらばまた還(かへ)り見む」

『万葉集』の「挽歌」の部、その一番最初に置かれているのが、悲劇の皇子として名高い有馬皇子の歌です。

有馬皇子は孝徳天皇の皇子で、世が世ならば次の天皇でした。

しかし、孝徳天皇は当時の朝廷の影の実力者・中大兄皇子との政争に破れ、その後に崩御してしまいます。

中大兄皇子が、女帝・皇極天皇を即位させる一方、中大兄皇子にとっては煙たい存在の有馬皇子は、暗殺されてもおかしくはない危険な立場に追いやられたのでした。

そして、中大兄皇子らへの謀反をくわだてた疑いで、有間皇子は捕らえられてしまいます。

その護送の旅路で詠まれたのがこの「岩代(いはしろ)の 浜松が枝(え)を 引き結び 真幸(まさき)くあらばまた還(かへ)り見む」の歌なのです。

「岩代の浜松の枝を、引き結んで幸を祈る。幸いにも私の生命がつながれば、ここに帰ってくるから」……とでも訳せるでしょうか。

古代日本では、旅路の中で心ひかれた木々の枝や葉を結ぶ風習がありました。

その結び目が、魂が肉体から離れる「死」から守ってくれると信じられていたからです。

しかし彼の願いむなしく、斉明四(658)年11月11日、有間皇子は絞首刑で亡くなりました。数え年で18歳の死です。

暗殺を恐れ、生まれ持っての聡明さを隠し、わざと愚かに振る舞ったが末のことでした。

大津皇子

大津皇子 「ももづたふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨(かも)を今日(けふ)のみ見てや雲隠(がく)りなむ」

天武天皇の皇子だった大津皇子が「謀反の罪」で処刑されたのは朱鳥元(686)年10月3日のこと。

いわば義母にあたる鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ、後の持統天皇)との権力争いに破れた末の非業の死でした。

処刑のために護送される中、自邸にほどちかい磐余池に泳いでいる鴨の姿を見た大津皇子が、「この風景を見るのも今日限りか」と詠んだ「絶唱」がこの歌だといわれています。

皇后・鵜野讃良皇女は、自分が天武天皇との間に授かった草壁皇子を天皇とするべく、夫が他の女性との間に授かった男子たちを抹殺していきました。

文武にすぐれ、「詩賦(しふ)のおこり、大津よりはじまれり(※原文の一部をひらがなに。『日本書記』)」とか「文武に秀で、自由闊達。人柄が慕われた(※現代語訳。『懐風藻』)」といわれるほど優秀な大津皇子も謀反事件を捏造され、消されてしまった皇子たちの一人です。

享年24歳。

最後の歌に鴨が歌われたのは、鴨が夫婦で寄り添い合う習性のある鳥だからでしょうか。

大津皇子の愛妻・山辺皇女(やまのべのひめみこ)も悲しみのあまり、髪振り乱し、裸足で夫の後を追いかけようと殉死しています。

歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹

「鴨」について

夫婦で仲睦まじく暮らしているため、夫婦愛をうたった歌に引用されたりしてきた。

しかし鴨科の鳥の間には一年限定、もっというと1回の繁殖シーズン限定のカップルしか存在しない。

夫婦愛の象徴のようなオシドリも鴨の仲間で、彼らもワンシーズン限定カップルでしかない。メスが卵を生んだ瞬間、オスは別のメスを探しはじめる。

この事実を知っていたら、大津皇子は最後の歌に鴨を詠み込むことはなかったかもしれない。

聖徳太子

聖徳太子「財物は亡び易くして永く保つべからず。ただ三宝の法は絶えずして永く伝うべし」

財産や宝物は世代を重ねれば失われやすい。
しかし、仏教の教えはなくなるものではないから、後世に必ず伝えていきなさい……というのが、聖徳太子の最後の言葉でした。

彼には二人、妃がいました。

「最愛」といわれるほうの妃・膳部菩岐々美郎女(かしわで の ほききみのいらつめ)が亡くなった翌日、推古天皇30年2月22日、聖徳太子も奇妙なことに亡くなってしまっているのですね。享年49歳でした。

二人は同じ疫病に感染していたとも噂されます。

当時の日本にはまだ元号の使用実績がなく、聖徳太子の叔母にあたる推古天皇が即位してから30年目のことでした。

聖徳太子は女帝である叔母の摂政(=政治的な補佐役)として活躍できていましたし、彼も皇族出身ですから、叔母の後を政治実績のある、この私が引き継いで……と考えていなかったはずはないと思います。

しかし当時は特別な事情がなければ、一度即位した天皇が退位する伝統はありません。

聖徳太子に即位の順番が回ってこないうちに、想像以上に叔母が長生きしてしまったがゆえ、彼の生命のほうが先に尽きてしまったとも考えられるわけですね。

今回ご紹介した他の皇子たちにくらべれば、非業感は低めですが、無念の死だったような気がします。

さて、太子の最愛の妃・膳部菩岐々美郎女と聖徳太子の縁は、奇しくも結ばれたものでした。

斑鳩地方に仕事で出掛けた聖徳太子が、川で芹(せり)という野菜を積んでいる彼女を見かけて一目惚れ。

その場で歌を詠みかけ、求婚して結ばれているんですね。
いわば「ナンパ婚」

恋愛には、おおらかな古代日本とはいえ、彼らのように身分の高い人たちには珍しい例です。

このため「仏教の法」がどうたらよりも、一目惚れ最強のイメージが筆者には濃い聖徳太子の人生ですが、最近の歴史教科書では彼の名前や、業績の記述が変化していっているようですね。

長年「聖徳太子(厩戸皇子)」だった記載が「厩戸皇子(聖徳太子)」となったり、教科書によっては「聖徳太子はいなかった」的な説明まで載っているそうです。

その背景には、厩戸皇子は実在が確認できる皇族男性だが、イエス・キリストのように馬小屋で生まれたり、十人の話を一度に聞いて理解したという逸話が「盛られた」聖徳太子と厩戸皇子が同一人物であるとはいえないだろう……というような主張があるのでしょう。

「現段階ではなんともいえない」というのが筆者の考えですが、聖徳太子という古代史のスーパースターがいなかったと断言されてしまうのはそれこそ悲劇であり、寂しいものがあります。

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