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コラム エピローグ <偉人たちの最期> presented by 雅倶楽部 2019年12月9日掲載

陰陽師の仕事を奪った「空海(弘法大師)」とはナニモノだったのか?!

旧来<呪詛調伏>のスペシャリストだった陰陽師。
その役割は、真言密教を説いた「空海」の登場により、真言(マントラ)を唱えられる僧侶へと変遷します。天台宗「最澄」からのM&A話を断り、空海が守りたかったものとは・・・?!本稿では、弘法大師として有名な空海の生涯を追います。

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空海「吾れ入滅せんと擬するは、今年三月二十一日宙真の刻なり」

空海の名前は、弘法大師として日本全国で有名ですね。

自分が死ぬ日、時刻を約6日前に予言し、実際にそのとおりになったというのが、弘法大師最後の言葉とされています。

空海(弘法大師)

最澄が少年時代から僧となるべく修行をしていたのに対し、讃岐地方出身の空海少年は天才少年として、末は都の学者さまか、お役人となるべく育てられました。

幼名は「真魚(まお)」。父は、佐伯直田公(さえきのあたいたきみ)で、讃岐地方の豪族の出身。都から命令を受け、郡司(地方の税収を管理する役人)をつとめていました

あまりに頭の良さを評価された空海は、15歳のときに京都に「留学」。朝廷の役人・学者を養成する大学寮などで学びます。

しかし、中国の古典を勉強していくだけでは、民の苦しみを救うことは出来ないのではないかと思うようになり、仏教こそが最高の知であるという結論に達したのが24歳のときでした。

最澄に比べるとスロースターターですが、ようやく出家を果たします。

陰陽師が活躍する時代は終焉に…

算木(さんぎ)で占いを行う陰陽師の図

その後、最澄とともに804年、遣唐使船にのって唐に渡り、当地でインド直伝の密教真言の奥義を極めました。このとき空海31歳。

真言とは俗流にいう「マントラ」のことですね。

空海が唐から戻ったのは、出発から早くも約2年後のこと(当初留学生活は20年になる予定でしたが……)

唐では多くの文化人と交流、見聞を広めました。さらに大量の密教文物を日本に持ち帰ることにも成功します。

京都の東寺を都の拠点として、真言密教の布教をはじめました。

弘仁7(816)年には、高野山に金剛峯寺の建築が嵯峨天皇によって許され、多くの修行僧を抱える大宗教団体を作り上げるにいたります。

真言のおしえは、真言宗だけにとどまらず、その後の仏教界のあり方を大きく変えたといわれます。

真言は呪術のジャンルでも多様されるようになり、陰陽師たちから仕事を奪いました

空海の時代以降、「呪詛調伏のスペシャリスト」は陰陽師から「真言」を使いこなせる僧侶に変わっていきます。

歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹

唐に渡り・・・

さらっと書きましたが、中国上陸まで、相当なトラブルがありました。空海が乗り込んでいた第一船は運悪く漂流し、34日後、ようやく中国大陸に上陸することができたのはよいものの、日本の海賊ではないかと疑われたりしてしまったのです。

予言・法力…生きる伝説「弘法大師(空海)」の最期

風信帖/空海筆

さて、天長八(831)年あたりから体調を崩しがちだった空海は、翌年末から死にじたくを始めました。

穀物を食べない「断穀」を行い、座禅を組んで過ごすようになります。

そして、その4年後の承和二(835)年3月15日に「遺告(ゆいごう)」として記されたのが、冒頭でもご紹介した「吾れ入滅せんと……」の言葉でした。

繰り返しますが、彼の予言は的中しました。やはり法力というものはあるのでしょうか……。享年62歳でした。

今なお、生きる伝説として空海は「お大師様」として尊ばれているのですね。

歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹

余談ですが、空海ゆかりの高野山・金剛峯寺では、午前6時と10時半の二回、空海のために彼が住んでいるとされる奥の院にまで食事が運ばれています。

彼が生前に、各地を訪れた際、池や清水をその法力で吹き出させたという伝説がのこり、これらは「弘法清水(こうぼうしみず)」と総称されるほどの数があります。

また「弘法も筆の誤り」「弘法は筆を選ばず」といったことわざも残されているように、空海は書の名手としても有名でした(いわゆる「平安の三筆」の一人)。

年末なにかと注目をあびる「今年の漢字」ですが、みなさんご存知だと思います。「漢字の日」とされる12月12日前後に、清水寺の僧侶の手で筆で書かれ発表されることが常ですね。

ずいぶんと前からやっているイメージがありますが、はじまったのは1995年(平成7年)から。日本漢字能力検定協会が通称・漢検のPRとしてはじめたイベントだそうです。

しかし、かならず清水寺で発表されているのは、同寺に空海の像が祀られているから。そして筆で今年の漢字が披露されるのは、空海が書の名手だったからなのだそうです。

このように本当に様々な意味で、空海の存在が、日本人の心の中にもなお生き続けていることには驚かされてしまいますね。

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