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コラム エピローグ <偉人たちの最期> presented by 雅倶楽部 2019年11月8日掲載

新選組隊長「近藤勇」の処刑が大河ドラマで描かれない本当の理由

新選組隊長として知られる「近藤勇」ですが、味方であった徳川慶喜公に見捨てられ、最期には武士としての自死『切腹』を果たせず斬首刑に処された悲しい経歴の持ち主です。本稿では、5箇所の寺院に存在する首塚の謎のほか、近藤の辞世の句に触れつつ、その最期を追いたいと思います。

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近藤勇「孤軍 援(たす)け 絶えて 俘囚となり 
君恩を  顧念して 涙、更(ま)た 流る」

幕末京都を騒がせた新選組の隊長・近藤勇。

慶応四(1868)年1月の「鳥羽伏見の戦い」の最中に総大将の徳川慶喜が突然、江戸に逃げ帰る事件がおき、幕府軍は総崩れになりました。

逃亡直前まで、慶喜は「最後の一人になっても戦い抜くのだ」と大演説をぶちまかしていたのに……。

戦場にいた幕府軍の中に近藤勇たち新選組の面々もいました。
彼らは、敬愛する将軍から裏切られたわけです。

彼らの将軍への真の思いを伝える資料は見つかっていませんが、近藤勇はじめ新選組の面々は、慶喜がいる江戸に敗走するしかありませんでした。

鳥羽伏見の戦いでの敗走がトラウマに

鳥羽伏見の戦い/富ノ森の遭遇戦

同年4月まで、関東に向かった近藤は新選組を「甲陽鎮撫隊」と改称。

ついでに自身の名前も近藤勇から、大久保剛(おおくぼたけし)、ついで大久保大和(おおくぼやまと)と改名をくりかえしました。

単純に偽名を使おうとしたということだけでなく、「近藤勇」としての傾き始めた命運を別人になることで、盛り返そうとしたのかもしれません(理解しやすさを第一に考え、本稿では近藤勇の表記で統一しますが)。

近藤勇を慕い、関東に集結しはじめた半・官軍勢力をまとめあげ、なんとか官軍(=新政府軍)が江戸に向かうことを事前に食い止めようと計画します。

急場だったにせよ、会津藩などから軍資金も集まっていました。

しかし、「鳥羽伏見の戦い」から敗走したというトラウマは隊士全体に大きかったのでしょう。

彼らの士気はまともには復活しないままでした。

たとえば解体して持ち運んでいた大砲など軍備はあるにはあっても、組み立てる知識がほとんどない者しか現場にはおらず、大事な戦に肝心の武器を使うことすら出来ないという失態、そして無念の敗走が続きます。

終戦への悟り…

もはや武士の世は終わりだ、戦いといっても「死に場所」を探すだけしかないという絶望もあったはずです。

なんせ「鳥羽伏見の戦い」では、総大将・徳川慶喜が味方を見捨てて、(しかも愛人女性は連れて)逃げ去っているのですから。

劣勢の中で、関東にちらばる幕府勢力の残党をかきあつめようとしているさなか、近藤はいつにない疲労を感じたといいます。

土方歳三

「終わり」を悟った近藤は、親友で同士の土方歳三のひきとめも聞かず、官軍に投降してしまいました。

それが現在の千葉県にあたる下総(しもうさ)流山(ながれやま)の地で、近藤は二人の部下とともに官軍の囚われの身となりました。

この時も、近藤は例の変名「大久保大和」を使い続けました。

投降ではなく捕縛されたともいわれますが、このあたりはよくわかりません。1868年(慶応四年)4月3日のことでした。

近藤たちの身柄は官軍の本営が置かれていた板橋に護送されます。

土方は江戸の有力者・勝海舟などに助命嘆願を出しますが、結果的にそれはムシされました。

捕らえられたときには、すでに近藤は冒頭で紹介した一節をふくむ漢詩を懐にしのばせており、死を覚悟、文字通り決死の活動をしていたものと見受けられます。

武士として扱われず斬首刑へ

近藤勇の最後の言葉を言葉を補いながら訳してみると

「孤軍奮闘してきたが、援軍は得られず、わたしは捕虜となった。
しかしこれまで(多摩の農民出身にすぎない)私を武士として扱ってくれた将軍家の御恩を思い出すにつけ、また涙が流れるものだ」

……征夷大将軍であり、「武家の棟梁(=リーダー)」たるべき慶喜サンに比べ、なんと立派な態度、そして言葉でしょうか。

官軍の中では、近藤を処刑すべきか、それとも捕虜として殺さずに置いておくかで議論がありました。

しかし、処刑を断固主張する土佐藩の勢力が強く、近藤は当時、一般庶民が処刑される方法の「斬首」でこの世を去っています。武士としては扱われませんでした。

囚われの身の近藤が最後の日々を過ごしている中、様々な時代の変化がありました。

4月11日には、江戸城が「無血開城」されました。

近藤の助命嘆願を勝海舟らの手で握りつぶされた土方歳三らは、江戸を離れ、各地の旧幕府軍の残党とともに再度、戦いに加わっています。

近藤の首はいずこへ…

三条河原での晒し首の様子

そして……ついに近藤勇の処刑の日がやってきます。1868年(慶応四年)4月25日のことでした。

近藤が処刑される様は、近藤の甥の近藤勇五郎が見聞きした証言が『始末記』という書物にまとめられています。

首が切り落とされる直前、「ながながとご厄介に相成った」と近藤が役人たちにハッキリした口調で礼をしたという言葉が、甥の近藤勇五郎の耳にも届いたそうです。

享年35歳、無念の死でした。

近藤の死の直前、彼は自分は殺してよいから、自分に付き添った部下二人だけは助けてやってくれと命乞いしたおかげで、彼らの生命は救われました。

歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹

近藤が連れてきた部下二人

野村利三郎(のむらりさぶろう)、相馬主計(そうまかずえ)のふたり。釈放後の二人は最終的に土方歳三と合流。北海道の函館に作られた「蝦夷共和国」こと旧幕府軍の一員として最期まで戦いつづけます。

首は最初は板橋の地で、その後、酒漬けにされて移送された京都の地でも晒し者にされました。

陰暦では初夏~夏頃の話です。

なのにアルコール保存できたからか、顔の血色が異様に良かったことに驚かれています。

そして、奇怪なことに近藤の首は京都で行方不明になりました。

処刑人の一人の横倉喜三次は、近藤の首は京都でさらされた後に東本願寺が引取り、東山の墓地のどこかに埋められたはずだ……と証言しています。

しかし、首塚の場所は今日まで一度も明らかになったとはいえません。

また、全国各地の5箇所ほどの寺院に近藤勇の首塚が点在していますが、そのどれもに確証はないままで今日にいたっています。

そもそも処刑されたのは、ほんとうに近藤本人だったのか? という疑問もなきにしもあらず。

こういう謎めいた経緯があるため、大河ドラマなどでも近藤勇の処刑が描かれることは稀のようですね。

慶喜公による歴史改ざん?!

徳川慶喜

このように謎の多すぎる近藤勇の死の前後ですが、歴史の流れがかわった「明治維新」の大事件についても、その内実が明らかにされていないケースは案外多いように思われます。

慶喜が「鳥羽伏見の戦い」から逃げ出した、ほんとうの理由も実は明らかになっていません。関係者が「墓まで秘密を持っていってしまっている」からです。

渋沢栄一

徳川慶喜の側近くに仕え、明治時代には実業家に転じて大成功をおさめた渋沢栄一が1918年にまとめた『徳川慶喜公伝』という史料があります。

渋沢いわく、慶喜が「(われわれが)一章脱稿するごとに(略)公(略)へご覧に入れると、喜んで丁寧にお目を通され」たシロモノなのです。

しかしこの本の記述では、非常に都合よく、事実がねじまげられています。

「鳥羽伏見の戦い」の開戦当日についてまとめれば、

「その頃、風邪で私は寝込んでいた。布団の中にいた。すると勝手に開戦されてしまった。松平容保率いる会津藩の軍隊が進軍し、官軍(=新政府軍)と激突したのだ。迷惑だった」

との記述があります。

ちなみに、この記述は慶喜が特に希望し、自分がいうとおりに書かせたものでした。

それまでは出来あがり、手元に届いた原稿を読み、ときどき付箋を貼り付けて意見する「だけ」だったのに、この部分を書いている時期にはわざわざ編集室に出てきて「上座に居座った」そうです。

松平容保

そして「私が言う通りに書け!」と命令した結果が、「風邪で寝てるうちに松平容保が戦争をはじめ、迷惑した」との記述なのだそうです(『会津松平家に関する三史実』)。

松平容保は明治の世では、「徳川家の戦犯中の戦犯」として扱われ、生活も困窮していました。

すでに犯罪者扱いの松平に罪を被せれば、自分(たち)はなんとかなるだろうというのが慶喜および、渋沢の発想だったのでしょう。

また、そういう慶喜・渋沢らが書いた歴史から読み取るべきのは、それが「事実ではない」ということでしょうね。 

近藤勇がそんな徳川慶喜の行末について、どう考えていたかを知る術はありません。彼の辞世の漢詩の中では、近藤を直参(=将軍直属)の武士にしてくれた「(慶喜公の)君恩を顧念」して、涙が流れると語っているだけですからね。

ただし、逆に徳川慶喜が、近藤勇(と土方歳三たち新選組)について、何を考えていたかについて、うかがい知る逸話はあります。

東京・日野市の高幡不動の敷地内には「殉節両雄の碑」と題された、近藤勇・土方歳三両名の異例の石碑があります。

この石碑の揮毫は、近藤ら新選組と関係のふかい松平容保の手によって、明治の世に書かれました。

しかし、旧・会津藩主の松平家(要するに松平容保の子孫)に伝わる逸話として、この石碑の揮毫を最初に頼まれたのは徳川慶喜だったというものがあります。

慶喜は、近藤勇の名前を聞くと黙り込み、涙をさめざめ流して見せたそうです。

返事は引き受けるとも、断るともなにも言わないままで、結局、書いたのは松平容保だったという話です。

近藤勇ら新選組の悲劇の最期については、さすがの慶喜も涙するしかなかったということでしょうか。

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