徳川家から輩出された歴代将軍の中でもっとも長命だった徳川慶喜。
享年は数え年で78歳、死因は風邪。時は大正2(1913)年11月22日のことでした。
江戸幕府終焉後の徳川慶喜
徳川慶喜の人生はドラマチックなものでした。
約260年間続いた江戸幕府を、自らの手で終わらせなくてはならなかったのには同情せずにはいられません。
尊皇家だったのにもかかわらず、慶応4年/明治元年1月には、明治天皇の新政府軍と、徳川慶喜率いる幕府軍を激突した「鳥羽伏見の戦」を経験し、「朝敵」の汚名すら受けました。
詳細は文字数の都合で省かざるをえませんが、それでも慶喜の命はなんとか救われました。
徳川家の領地は大幅に削られ、財産の大半も奪われてしまいましたが、家の存続だけは許されるという状況下で慶喜の明治がはじまりまったのです。
明治時代の大半を徳川家康ゆかりの土地・静岡で、慶喜は来客にもほとんど会わず、母の病中見舞などでわずか数回静岡から出る以外は、蟄居謹慎の体で過ごしています。
自分の代で徳川将軍家を潰したという悔恨の念はどこまでもつきまとってきたでしょうし、苦しかったとは思います。
どこまでホント?渋沢栄一が記した「徳川慶喜公伝」
そんな慶喜ですが、晩年には明治天皇から公式に許され、最高位の華族の位である公爵を授けられています。
徳川慶喜に公爵の位が授けられた大正7(1918)年には、慶喜の元・側近で明治時代に実業家として大成功していた渋沢栄一が『徳川慶喜公伝』という伝記を編んでくれました。
渋沢いわく「一章脱稿するごとに(略)公(=慶喜)の御許へ呈してご覧に入れると、喜んで丁寧にお目を通され、時には御自筆で附箋をなされ、これはこうであるけどこうではなかったと、修正意見をお記し」になったといいます。えらく熱心に後世にのこる自分のイメージを慶喜が調整しようとしていたことがうかがえます。
……この中で、例の「鳥羽伏見の戦」の開戦当時について、慶喜はこんな回想を渋沢栄一に記させています。
「風邪で私(=慶喜)はずーっと布団の中で寝ていた。でも知らないうちに勝手に部下が戦を開始していましたので、それを後で知った私は、万事休すと思って引きこもっていた」
つまり、会津藩主だった松平容保らに「責任」を全てなすりつけているのでした。
こんな見え透いたウソを、「真実」として書くようにかつての家臣に迫った徳川慶喜が、一筋縄ではいかない人物であることはおわかりいただけたと思います。
一体どこへ?歴代将軍の墓所を断った徳川慶喜
さて明治時代に話はもどります。
慶喜の嫡男・慶久(よしひさ)は、「最後の将軍」の嫡男であるにもかかわらず、徳川宗家を継がず、というか継げずに「慶喜家」を創設することになります(後に慶久は睡眠薬自殺ともされる不審死を遂げています)。
徳川宗家は、十三代将軍・家定の御台所だった天璋院篤姫が明治になってからもカリスマを発揮、彼女が中心となって運営されていました。
結局、徳川宗家は篤姫が押す、徳川家達が後を継ぐかたちとなりました。
家達は徳川の家門のひとつの田安家から養子に迎えました。
このように徳川将軍家を潰してしまった慶喜はさすがに肩身が狭く、芝の増上寺・上野の寛永寺という歴代将軍の墓所に自分は葬られたくないと言っていました。
「自分を許し、公爵位を与えてくれた明治天皇に感謝を示すため」など理由は様々にせよ、慶喜は自分の葬儀を上野・寛永寺内に新設された斎場で,神式で行い、その後谷中霊園の神式の墓に葬ってほしいと言い残しました。
このため、彼の墓は円墳を模した円筒型をしており、徳川将軍経験者の葬儀としては異例づくめの式となりました。
慶喜の亡くなった大正2年は寒い年で、11月20日の葬儀の数日前には早くも雪が降り、道が凍っていました。
それにもかかわらず、慶喜の葬列を見送ろうと上野から谷中までの沿道にはたくさんの人々であふれました。慶喜の死は、江戸の最後の名残が消えた瞬間とされ、人々を感傷的にしたようです。
亡くなった最後の将軍を哀悼するべく、沿道の家々は門を榊や花で飾りました。
明治時代のお葬式は葬列がメインイベントなのですが、慶喜の葬列には狩衣姿の男性、白無垢の紋服の女性といった慶喜の親族だけでなく、多くの旧幕臣たちが付き添いました。
「明治天皇より、江戸最後の将軍が長く生き延びたのは、さすがだ」などという声もあったそうです。
このように慶喜は葬られたのですが、彼の墓のとなりには同じく皇族風の円墳型のお墓があり、正妻の美香子が眠っています。
慶喜の墓に隠れるように、側室女性の中で、とくに選ばれた二人の側室も眠っています。
さらに慶喜の墓の傍には、勝海舟の家に養子に出したはずの、十男・精(くわし)の円墳風の墓まであるのですが……これになぜ、という疑問は当然出てきます。
他家の嫡男とするべく養子に出した男性が、どうして妻と共に実家に出戻りしているかというと、そこにはどうやら不祥事があったようなのです。
精の死因は彼の高い身分を考慮されてか、「脳溢血」というもっともな死因になってはいるものの、本当は愛人女性と心中したとされます。
マイペースさでは誰にも負けないハズの慶喜も、草葉の陰でさすがにヒヤヒヤしていたのではないでしょうか……。