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コラム 堀江宏樹の葬儀文化史 presented by 雅倶楽部 2018年3月15日掲載

埼玉は屋根、千葉は井戸!?・・・陰陽師がムチャ振りされた蘇りの儀式とは

臨終の際(きわ)に生死の境をさまよう人の名前を呼ぶのは、ドラマでも多々見かける光景です。本記事では、その「呼びかけ」が死者を蘇らせるための【儀式】として「なぜ」・「どのように」成立していたのかをご紹介いたします。

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かつての日本では、生と死の間は曖昧でした。

現代日本では多くの方が病院で亡くなることもあり、たとえばバイタルサイン(心電図)が平らになってしまった状態や、瞳孔が光に反応して動くかどうかなどのいくつかのポイントを確認したのち、「この人には死が訪れた」と判定する傾向があります。

しかしその手の一目瞭然の判定基準がなかった古い時代では、息があるかないかが生と死の境目となりました。

息が止まれば、死の領域にその人は向かったことになりますが、息を吹き返せば生の領域にその人が帰ってきたと考えたわけです。

このコラムでも何回かお話ししましたが、中世ごろまでは遺体を野辺に放置しておくだけの「風葬」が、庶民を中心に主流の「お葬式(?)」だったことを思い出してください。


これも人ひとりを土中深くに埋めるのは大変とか、遺体を燃やしつくすだけの薪を揃えられないとかいう現実的な理由もありますが、ひょんなことでその人が息を吹き返し、戻ってきてくれるかもしれないという期待を踏まえた結果だったという見方もできます。

場合によっては、彼らは「死んだ」とされる人が生き返るのをただただ、待っているだけではありませんでした。

当時の「死」とは、その人の魂が肉体から抜け出てしまった状態を指しました。このため、抜け出た魂を呼び戻そうとする「魂呼び」の儀式が、行われていたようですよ。

死者には3回呼びかけよ!復活の儀式とは?

死者には3回呼びかけよ!復活の儀式とは?

魂呼びの儀式の源流は、古代中国の『礼記(らいき)』という書物にあります。

『礼記』は中国の古典の中でももっとも重要視される「四書五経」のひとつです。

『礼記』の記述によると、魂呼びするには「(まだ息があるうちに)病人を北の窓の下に頭を東にして寝かせる」とあり、病人が危篤状態に陥った段階から儀式が始められたようです。

現代日本のお葬式などでも採用されがちな「北枕」の風習(故人の頭部を北に向けて寝かせる)の源流は、お釈迦様が入滅する(亡くなる)時にそうだったという故事だけでなく、この『礼記』の北の窓の下に……という記述からの影響もあるのではとも思われます。

さて、不幸にして病人の呼吸が止まったかどうかは、その人の鼻の上と口に置いた綿の動きで判断されます。死ぬか生きるかの瀬戸際で顔に綿を乗せられるのは、少々つらいかもしれませんが、いたしかたありませんね。

死者の側近が礼服を着用し(魂呼びの儀式は為政者、つまり主に富裕層用だったと考えられます)、東側の軒からのぼって屋根の中央に立ち、北の方角に向かって、3回死者に呼びかけたそうです。

次に礼服を脱いで丸めて屋根から投げて落とし、係の者がそれを受け止めるというように儀式は続きました。

権力者からの「復活」依頼を断れなかった陰陽師たち

権力者からの「復活」依頼を断れなかった陰陽師たち

古代日本でも『礼記』は重要な古典として上流階級に学ばれる習慣があり、この手の魂呼びの儀式もある程度普及していたようです。ただし、あまりにモノモノしいからでしょうか、『源氏物語』が書かれた平安時代中期ごろにはすでに廃れてしまっていたようですね。

しかし藤原道長のような権力者の愛娘が突然亡くなるという非常事態ならば、話は別。

陰陽師たちがおそらくは道長本人から「娘を生き返らせる術はないものか」といわれ、行われる例が少なくなっていたらしい『礼記』の儀式をアレンジして行った話が『小右記』などの書物に見られるのです。

歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹

道長の愛娘とは藤原嬉子(ふじわらのきし)のこと。

敦良親王(あつながしんのう、のちの後朱雀天皇)の妃となり、19歳の若さで男の子を出産するという傍目には幸運な彼女の人生でしたが、お産の三日後、急死しています。死因はハシカだったといわれています。

陰陽師たちは道長の命を受け、彼女の屋敷の屋根に『礼記』の記述どおり東側からのぼりましたが、中国風の礼服ではなく、嬉子の着ていた衣服を使って魂呼びしたそうです。もしかしたら中国風の礼服を準備するヒマがなかったのかもしれません。

しかし彼らの必死の祈りも届かず、嬉子の魂は戻ってくることがありませんでした。

ホントに?!明治時代まで続いた魂呼びの儀式

ホントに?!明治時代まで続いた魂呼びの儀式

興味深いことに、『礼記』の記述をふまえた魂呼びの儀式は日本の“都会”からは消えても、地方各地でひっそりと受け継がれていたようです。井之口章次の『日本の葬式』には各地の「魂呼び」の儀式が約100例ほども紹介され、様々な地域で比較的長く生き残っていたことがわかります。
埼玉県秩父の倉尾村(現在の小鹿野町)では明治末年頃まで、魂呼びの儀式が行われていたそうです。

そろそろ病人が危ないというときになると身分の高い「法印大和尚(ほういんだいかしょう)」というランクの僧と家族が屋根にのぼり、死者の名を叫んだそうです。

ちなみに25歳の時に、この儀式によって魂が肉体に戻った岩崎富作さんなる男性がおり、彼はその後75歳まで長生きしたそうな。

京都の舞鶴などでは屋根の上から、もしくは枕元で名前を呼んで魂を呼び返そうとしていたそうですが、こうなると魂呼びというより、普通の臨終の光景と変わらないですね。

他には、井戸に向かってその人の名前を呼ぶという地域もありました。
江戸時代の千葉では病人が受け答えをしなくなると、井戸に「(魂よ)戻れ!戻れ!」と呼びかけたそうです。

歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹

同時代の江戸では、井戸に向かって名前を呼ぶのは略式で、屋根に登るほうが正式であると考えられていたそうですよ(『新篇常陸国誌下巻』)。

なお、バイタルサイン(心電図)が平らになってしまった後も、つまり医学上の死が訪れたのちもその人の聴覚の能力は比較的、長く残っているといわれますよね。

生と死の境目にいる人に呼びかけるのは、意味のある行為だとむかしの人々も何となくわかっていたのでしょう。

しかし亡くなった人の枕元ではなく、その人からわざわざ離れたところを選んで、名前を叫ぶという発想は現代人にはなかなかないと思われます。興味深いものですね。

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