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コラム 堀江宏樹の葬儀文化史 presented by 雅倶楽部 2018年9月4日掲載

喪服は白!服喪期間は3年?!魏志倭人伝から日本最古のお葬式を読み解く

「お墓なし」「10日間喪に服す」「肉を食べない」

これらは『魏志倭人伝』に掲載されているお葬式の様子。
本稿では、歴史書をもとに、日本最古のお葬式の様子をご案内いたします。

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わが国最古のお葬式の記録は、いわゆる『魏志倭人伝』の中に出てきます。当時の日本は3世紀で、弥生時代の話です。

ではどんなお葬式が行われていたのかを知るために、『魏志倭人伝』内の該当箇所を引用してみましょう。

其死有棺無槨
(その死には、棺有りて、槨無し)
封土作冢
(土を封じて塚を作る)

いきなり埋葬の風景ですが、『魏志倭人伝』の著者は、この部分がどうやら一番伝えたかったようです。

訳としては、「日本人たちは遺体をおさめるためのお棺は使うが、槨(かく)は用いない。

お棺は土に埋め、その上に塚を作る」となりますが、キーワードは「槨」です。

「槨」とは「遺体を収めたお棺をカバーするもの」もしくは「お棺を安置するところ」というような意味です。

それを使わない日本の埋葬方法が、当時の中国人にはよほど異例に思えたのでしょうか。

この記述につづいて、お葬式っぽい光景が出てきます。

始死停喪十餘日 當時不食肉 喪主哭泣
(始め死するや喪を停むること十余日。時に当たりて肉を食わず、喪主は哭泣し、他人就きて歌舞飲酒す)

誰かが亡くなると、10日あまりが喪に服する期間となり、その時に肉は食べない。

喪主は嘆き悲しむが、他の人びとは歌ったり踊ったり、飲食して過ごす。

これが3世紀、弥生時代の日本でのお葬式の光景だったようです。

宗教はなくとも死に対する「ケガレ」の概念はあった?!

お葬式で泣いているのは喪主だけ。
あとの人々(家族や親しい友人でしょうか)は、むしろ楽しんでいるように見せるというのが特徴的ですね。現在日本でも、お通夜の席にはむしろ和やかな雰囲気が流れることが多いものです。

親族たちで「◎◎さんは大往生だった」などといいあっていたりしますが、その光景を彷彿とさせるように筆者には思われます。

(『魏志倭人伝』の該当箇所で最初に記されていたように)その後は、お棺を土中に埋め、塚を作る作業をします。

その後、遺族たちは家中総出で水辺におもむき、水浴びをして禊ぎ(みそぎ)のようなことをした……という部分で記述は終わりです。

当時の日本の宗教は「不明」。
仏教などはまだ伝来していないのですが、それでも日本人の祖先たちが、死を「ケガレ」としてすでに考えていたことがうかがえる一節で興味深いです。

聖徳太子の時代のお葬式…喪服は白が常識?!

なお、隋の時代の中国歴史書『隋書』には、ふたたび倭人こと日本人のお葬式についての記述が出てきます(正確には『隋書』内「東夷伝 倭国条」)。

ちなみに『魏志倭人伝』の時代から約300-400年後の話です。

隋末期~唐初期を生きた魏徴(580―643)という中国人の学者が同時代の日本の習俗について記しており、いわば聖徳太子の時代の日本のお葬式を知ることができる貴重な記録となっています。

さっそくその興味深い内容を見てみましょうか。

死者斂以棺槨
(死者は棺槨を以て収め)

親賓就屍歌舞
(親賓は屍に就きて歌舞す)

妻子兄弟以白布製服
(妻子兄弟、白布を以て服を製す)

貴人三年殯於外、庶人卜日而瘞
(貴人は三年、外に殯(もがり)し、庶人は卜して瘞(うずめ)む)

……とあります。

この頃には、日本人もお棺だけでなく、お棺ケース、もしくはお棺を安置するための「槨」を使っていたようですね。

また埋葬にさきがけたお葬式では親族が御遺体の横で、歌ったり踊ったりします。

また、この頃の日本人の喪服は白だったようです。
遺族たちは特別に白い布で作った喪服を着ていたのでした。

有閑階級にあたる高貴な人びとは、服喪期間として3年(!) も過ごしたというのですが、労働しなくては生きていけない庶民たちは、占いをして埋葬に最適な日を占い、服喪期間も切り上げた……とあります。

3年というのは本当に3年というより、長い期間を指す比喩表現だという学者もいますが、身分の高低によってお葬式のあり方にもどうやら大きな違いがあったことがうかがえるのでした。

なお、大和朝廷時代の日本では、天皇などきわめて高貴な人が亡くなると、その人への敬意と彼を失った悲しみを表現するため、「匍匐礼(ほふくれい)」「跪伏礼(きじょうれい)」が行われました。

匍匐礼とは、泣きながら地面に腹ばいになる行為。跪伏礼とは同じく泣きながら地面に額をすりつける行為です。

7世紀後半の天武天皇の時代(天武十一年)には貴人の葬儀での「跪伏礼」が公式に禁止されたという記録までがありますが、それでもなかなか止まらなかったようですよ……。

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