雅やかな生活を送っていた平安貴族たち。
信仰心が非常に強い彼らがどんなお葬式を営んでいたかには興味が尽きませんが、残念ながら、ほとんど史料は残されていないのが現実です。
『源氏物語』にも「死」は描かれても、その後、どのような葬儀が行われていたかを具体的に示すシーンは、ありませんからね。
当時、「死」は最大のケガレでしたから、葬儀が終われば、葬儀にまつわる全てを無かったことにするべく、記録の消去が意図的に行われていたと推測されます。
その一方で、故人が自分のお葬式について、こうして欲しい、というような意思を生前から伝えていたようなことも記録の端々からうかがえるんでした。
藤原定子が和歌に残した希望の葬儀
平安時代の皇室や上流貴族は一般的に火葬されることが多かったといわれています。
しかし清少納言が仕えた、一条天皇の正室にあたる「中宮(のちに皇后)」の藤原定子は、次のような和歌を残し、「火葬は拒む」という意思を親族に伝えた……とされます。
「煙とも雲ともならぬ身なりとも草葉の露をそれと眺めよ」
(訳)火葬されていないので、煙とも雲ともならないわが身ですから、草の葉に宿る露を私だと思って見てください
「火葬にはしないで」という定子の意思を、彼女の和歌の「煙とも雲ともならぬ」の一節から、彼女の兄の藤原伊尹(ふじわらのこれただ)は読み取り、願いを叶えたのでした。
さすがは清少納言の『枕草子』では風流な貴公子の代表格として扱われている伊尹サマですね。
藤原定子はなぜ火葬を拒んだのか?
そんな定子が亡くなったのは長保三年十二月(1001年)のこと。出産時の死でした。
そして、彼女が火葬を選択しなかったのには「理由」がありました。
藤原定子はかつて夫の一条天皇と熱愛しあっていました。
一条天皇には定子以外にも妃がいましたが、それでも定子は一番に愛されていたのです。
しかし……定子(とその一族)にとっては親戚であると同時に、宿命の政敵にあたる藤原道長がその娘・彰子を、一条天皇の後宮に無理矢理押し込んできた時、事態は一変しました。
定子は一条天皇の愛を、「新参者」の彰子と二分しなくてはならなくなったのです。
その気がかりな状態の中、しかも当時ではもっとも望ましくないとされた出産時の死を定子は迎えたわけです。
火葬とは遺体を灰にしてしまう行為ですから、この世との断絶をイメージさせました。この世に心残りのある定子としては、どうしても、自分の葬儀をそういう風には行いたくなかったのでしょうね。
切ない定子の意思を、兄・伊尹は和歌から読み取り、彼女の遺体を「霊屋」に収めたといいます。
霊屋とは、棺ごと故人の遺体を収納、扉を閉ざして放置しておくという木造の小屋です。
ある時期が過ぎると建物ごと、荼毘に付すケースが多かったようですが、その後、定子の遺体がどうなったかまではわかりません。
平安時代では、遺骨をお墓に納め、定期的に参拝するというような習慣が、まだほとんど無かったからです。
望ましい死に方のお作法とは
なお、さきほど「平安時代では産死が望ましくなかった」とお話ししましたが、望ましい葬儀だけでなく、望ましい死に方のお作法というものまで存在していました。
たとえば、藤原定子が憎んだであろう藤原道長は、重度の糖尿病による合併症などで苦しみながら亡くなったようです(藤原実資『小右記』)。
しかし、道長を理想化して描いた歴史小説『栄花物語』では、心静かに念仏など唱えながら、道長は極楽往生していった……と書かれているのが注目されます。
実際に彼の臨終を目にしなかった大部分の人々には、そういう理想化された死に様が道長の死の真相として伝えられたのかもしれません。
『中右記』はフィクション!本当は七転八倒して助けを乞うた堀河天皇
権力者・藤原道長だけでなく、どちらかというと不遇の帝・堀河天皇も、その死を語る言葉に整合性がありません。
「仏様の名前などを唱えながら、眠るように……」という家臣の記述もある一方(藤原宗忠『中右記』)、天皇の長年の恋人だった女官によると七転八倒の苦しみの中、伊勢神宮に向かって「助けてください」と祈る堀河天皇の哀れな姿が記録されているのです(『讃岐典侍日記(さぬきのすけにっき)』)。
その讃岐典侍(さぬきのすけ)という女官は、「死の苦しみの中でも、天皇は私へのやさしさを忘れず……」などと書いています。
まぁ、ここが一番、記録したかった箇所なのでしょうが、「愛は死よりも強し」、ですね。
医学的に現代とは比べものにならないくらいに遅れていた平安時代、鎮痛剤などもありません。
物語のように美しく死んでいけた人はいたとしてもごく少数だったでしょう。
それにしても……理想の葬儀どころか、その前段階として自分の死に様までプロデュースしなくてはならなかった平安貴族たち、ある意味で気の毒ともいえるかもしれません。