自分のお葬式を「生前からデザインする」といえる行いは、平安時代の上流階級にはすでにありました。
とはいえ、当時、葬儀にもっとも望まれた要素は、スピーディーな葬儀/埋葬だったようです。
しかしいくら強く希望しても、暦の上の吉凶が影響するのですね。
このため実行されないまま時間だけが過ぎてしまう不幸なケースが、多々ありました。
守られることのない平安貴族たちの遺言
平安時代後期の実力者・藤原頼通もスピード埋葬を希望していた一人ですが、一日も早く葬ってくれ、という自分の遺言がまったく守られなかったことに、草場の影で悔しがっていたかもしれません。
藤原頼通はその父・道長が宇治に建てた別荘を、平等院鳳凰堂(現在、世界遺産)に改装させたので有名な人ですね。
頼通は、「暦上の吉凶など関係なく、とにかく自分が死んでから三日以内に火葬を終わらせ、埋葬まで済ませるように!」と遺言していました。
当時は遺体を、腐敗から守る技術が存在しませんでしたからね。
遺体が腐敗し、とんでもない見た目になってしまうのを、警戒していたのでしょう。
におい消しの対策としても、上質の酢を故人の鼻の下あたりに塗った(もしくは酢を含ませた布を置いた)というような対策くらいしか、方法はありませんでした……。
ですから「三日以内に埋葬して」は当時の遺言での定番表現だったのです。
しかし、その時期の遺言について守られることは非常に少なかったようです。
平安時代中期の藤原頼通のケースも、遺族が暦にこだわったため、埋葬までは「時間がかかった」そうです(故人の遺言を守れなかった場合は、遺族の名誉のために詳細を省くため、色々と不明)。
しかし遺言を守れない親族たちは、ダラダラと埋葬までの日々をただ過ごしていたわけではありません。
現代のように適切な処置を行われていない故人の遺体は日々、悪い方向に変化していってしまいます。
棺に収める時、衣で顔まですっぽり覆い隠してしまうケースもありました。要するに変わりはてた遺体を他人の目にさらさないための工夫でしょう。
重要なのは故人の遺志よりも暦上の吉凶
前回も取り上げた藤原定子の兄・伊尹(これただ)は、父・師輔(もろすけ)の喪主を務めましたが、暦の問題があって埋葬まで時間がかかりすぎました。
遺言通りの三日以内の埋葬が実現できなかったことに、伊尹は苦悩しすぎたあまり、命を縮めたとすら伝えられています。
先述の藤原頼通のケースですが、埋葬まで相当に時間がかかってしまった悪いケースだとして語り継がれたようです。
平安時代後期の鳥羽法皇は「藤原頼通みたいに遅れるのは絶対に避けて」とまで命じていましたからね。
歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹
藤原頼通……平等院鳳凰堂の名称は後世につけられたものとはいえ、あんな建物まで作って極楽往生を願った人だというのに、悪い葬われ方をされた見本として語り継がれていたらしいことは気の毒ですね……。
鳥羽法皇は「(葬儀が延期される理由となる)寺社の祭日や、方角・土用といった暦上の要素もすべて無視して」とも遺言していました。
鳥羽法皇の葬儀はどうなったのでしょうか。
これだけしてようやく、といったほうがいいでしょうか。当時にしては珍しく本当に遺言通り、三日以内の葬送という希望が叶えられたのでした。
歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹
鳥羽法皇の同時代人で、政治上のライバルでもあった藤原忠実は「三日以内に埋葬してほしいという故人の遺志に背いてでも、暦の吉凶を重視するべきだ」と語っています。
歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹
ちなみに暦上の吉凶とは言っても、仏滅・友引・大安……などの「六曜」、正確には「六輝六曜」で占われたのではありません。六曜が中国から日本に輸入されたのは、鎌倉時代くらいのこと。六曜が大人気になったのは、実は昭和中期くらいからにすぎないという説までありますが、平安時代に暦の専門家である陰陽師たちが用いたのは「十二直」と呼ばれる暦上のルールです。
もちろん十二直だけでなく、方位の吉凶などなど複雑な要素を組み合わせ、吉凶を占断していました(陰陽師の本職は呪詛や妖怪退治ではなく、この手の暦の解釈です)。