戦国時代の日本人の素顔をその著書『日本史』に書き残したポルトガル人宣教師・フロイス。彼はこんな興味深いことを言っています。
「日本人が(平素)目標として眼前に(思い浮かべ)、大いに重んじている粉との一つは葬式の盛大さと、死者に対してなされる葬儀の豪華さである」
このころから、日本人はお葬式を「故人の人生の総決算」として考えはじめていた……ということですね。
豪華な葬儀のおかげでキリスト教信徒が増えた?
そしてフロイスはこんなことも言っています。
「多くの異教徒(=日本人)たちが、異教を棄ててキリシタンになる理由の一つが、そうしたことによる場合が少なくないからである」。
キリスト教のお葬式が当時の日本人の目にはこの上なくゴージャスで魅力的だから、切支丹(キリスト教徒)となることが多かった……
これが、戦国時代に日本で切支丹が増えた本当の理由のひとつでした。
キリスト教の教えに納得したからこそ、洗礼をうけてクリスチャンになってほしいのが宣教師の本音でしょうが、それでも信徒の増加は嬉しいことだったでしょう。
理由をつきつめて考えるとなかなか心苦しいところがあったかもしれませんが。
同じくフロイスによると、豊後のある宣教師は、身分の高いクリスチャンの葬儀を魅力的にプロデュースできたがゆえ、多くの信徒を獲得成功したとも書いています。
「金銀をつけた十字架や100名の切支丹がもつ蝋燭」などが登場、「気品のある葬儀」はみなの気持ちを惹きつけたとのことです。
宗教上の行事でありながら、遺族が自分たちのステイタスを世間にひけらかしたいという欲望もチラホラと見えてくるような感じではありましたが。
民衆のニーズが仏教葬儀のキリスト教化を後押しした?!
さて戦国の世が終わり、徳川幕府が樹立された後、こうしたお葬式がスペクタクル化する傾向は強まる一方でした。
ちなみに江戸時代には(特に最初期は)神道関係者といっても、神道のお葬式を行うことは幕府の命で許されなくなりました。江戸時代は「仏教が強かった」のですね。
また、キリスト教自体は江戸時代初期に禁教となってしまうので、キリスト教式の豪華なお葬式を日本人が続けることはできません。
しかし、江戸時代になると(葬儀を取り仕切ってきた)寺の収入が、武家と同じように江戸幕府からの支給式になってしまったこともあり、また江戸時代には寺をいわば大小のパトロンたちが支えるという「檀家制度」も出来ていますので、これまでのように「死んだらそれで終わり」、「あとは来世に生まれ変わるのを待ちなさい」式の簡素な態度を取りがちだった仏教の諸宗派も、豪華なお葬式を求める民衆のニーズに加担せざるをえなくなってきます。
こうして江戸時代は死者の自宅と、郊外にある火葬場まで遺族とその関係者が行列を組み、遺体を運んでいく葬列がお葬式のクライマックスとなりました(ちなみに寺の僧侶も行列に参加させられました)。
武士など貴族層だけでなく、村の代表格や、裕福な町人のレベルでもできる限り葬式を豪華に行うことがその家のステイタスの証であり、故人の誉れでもあるという価値観が全国的に根付いていったようです。
たとえば、大坂の北久太郎町四丁目の本屋・新次郎が亡くなった際には、午後2時頃から50人からなる葬列が組まれ、大坂中を練り歩きながら、新次郎の遺体を火葬場まで運んで行ったようです。
故人の威光を見せつけるだけでなく、お店の宣伝もしていたわけですね。
しかもただ練り歩くだけでなく、注目してくれといわんがばかりの鳴り物入りだったようです。
奉行所が豪奢な葬儀を禁止?!
あまりに華美な葬列があちこちで相継ぐため、元禄七(1694)年、大阪町奉行所は「葬列禁止令」を出しますが、実際にはまったく守られませんでした。
このため奉行所が追加のお触れを出して「何時でも葬列をつくって練り歩くことはやっていいから、その代わり、火葬については日暮れ以降に行うように」と追加で命令するしかなくなるという始末となりました。
この頃になると様々な葬儀ビジネスはすでに存在していました。
葬列で使う鳴り物など葬具一式は複数の業者が販売、中古販売もしくはレンタルすらされている状況でした。
金持ちであろうが庶民であろうが、葬儀が一世一代の見栄を張るべき「場」として認識されはじめたことがうかがえるのでした……。
当時から数えて、ほんの(?)300―400年くらい前までは、最大のケガレであった「死」は、もはや人生のひとつの節目としてポジティブに捉えられはじめていたのかもしれませんね。
あまりに華美な葬列があちこちで相継ぐため、元禄七(1694)年、大阪町奉行所は「葬列禁止令」を出しますが、実際にはまったく守られませんでした。