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コラム 堀江宏樹の葬儀文化史 presented by 雅倶楽部 2018年10月8日掲載

同志社大学の祖「新島襄」さえもお断り?!葬儀ができない!墓地もない!基督教信者の苦悩

『帝国憲法』の発布により信教の自由は保障されたものの、キリスト教信者への風当たりは依然強いまま。
本稿では、キリスト教信者でもあり同志社大学の祖でもある新島襄の葬儀について詳しく触れていきます。

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同志社大学の設立者として知られる、新島襄。

元治元年(1864)年の夏、数え年22歳で新島はアメリカにむけて出発、その船旅の中でアメリカ人の船員から付けられたニックネームが「ジョー」であり、帰国後もその名を漢字にして使い続けました。

温和な人柄で知られる新島は、大河ドラマ『八重の桜』のヒロイン・山本八重と結婚しています。

夫妻でならんでいると、細面の新島にくらべ、赤ら顔の八重は体格も逞しく、よほど怖い印象だったと言いますが(徳冨蘆花『黒い眼と茶色の目』)、行動力にかけては新島も、八重に負けず劣らずの猛者だったといえます。

アメリカについた新島は洗礼を受け、キリスト教徒になりました。英語を見事習得するだけでなく、名門・アマースト大学を卒業、理学士の学士号を得ています。

そう、日本で最初に大学を卒業した人こそ、新島襄なのです。

アマースト大学で新島が化学を教わったのが、クラーク博士でした。

北海道大学の前身・札幌農学校に赴任してくる、あのクラーク博士です。

余談ですが……クラーク博士は「少年よ、大志を抱け」の名言で有名ですが、実際のところ、これは英語の慣用表現にすぎず、クラーク博士オリジナルとはいえないようです。

禁教政策が終わっても続くキリスト教信者の苦悩…日本ではお墓が持てない?!

さて、江戸初期から長年続いていたキリスト教を禁教とする政策が終わるのは1873(明治6)年2月のこと。新島の帰国の直前の話でした。

しかし明治初期ですら、キリスト教信者たちの苦悩は続きます。

とくに問題だったのは、1872(明治5)年6月に太政官(明治初期の日本の最高行政機関)から布告された、「自葬を禁止する」という部分をふくむ法令です。

「自葬」とは、神道の「神官」と仏教の「僧侶」以外によってとり行われる宗教による葬儀のことでした。

キリスト教式のお葬式を行うことがこの時点ですら、法律で禁止されて不可能になってしまっていたのです。

問題はさらにありました。

日本ではキリスト教が長年禁止されていた結果、墓所というものが寺か神社に付属する土地にしか通例、設けられていないため、キリスト教信者は寺か神社に「キリスト教式の墓を作っても良いか」と交渉せねばならなかったのです。

京都の名士・新島襄のお葬式ですら、そういったトラブルが多発してしまいました。

彼が亡くなったのは1890(明治23)年1月23日のこと。同志社英学校というキリスト教精神による教育機関はすでに出来ていましたが、惜しくも正式な大学設立の目処が立った時期でした。

死因は急性肺炎で、徳富蘇峰ら教え子たちに囲まれての47歳(数え年)の死でした。

新島の最後の言葉は「狼狽するなかれ、グッドバイ、また会わん」だったと伝えられます。

新島の死を悲しむ周囲の人々を、逆に慰めているかのような高い人徳だけでなく、英語の使用にはハイカラさが感じられますね。

南禅寺に建墓を断られた新島襄…生徒に見守られ逝く

新島襄のお葬式は1月27日、大雨の中で行われました。

京都・寺町丸太町の本邸から、同志社学院内の公会堂につくられた仮舎の葬儀場までを、同志社の生徒たちが千人以上も集まり、葬儀にまつわる全てを担当、新島の棺も運んだといいます。

新島の教え子代表たちや、新島と親交の深かった、宣教師仲間のデビス師らによる賛美歌、聖書の朗読、祈祷、賛美歌、(新島の)履歴朗読、キリスト教の説教、祈祷、賛美歌……という順序でセレモニーは進みます。

その後、大雨の中、若王子神社の山の墓所まで学生たちがお棺を運んでいったのだそうです。

棺を運ぶ際、彼らは「(新島)先生の棺は他人には指一本触れさせぬ」と言っていたそうですが、こうした強い連帯感も、明治初期の日本社会がキリスト教関係者に冷淡だったがゆえでは……と思えるところがあるのですね。

というのも、もともとは南禅寺に新島の墓所を作る予定でしたが、南禅寺がキリスト教式のお墓を作ることに難色を土壇場で示したそうです。

1875(明治8)年以降、青山墓地などの「公営墓地」ではキリスト教徒の墓を作ることも認められ、さらにキリスト教での葬儀も1884(明治17)年10月以降は認められていたはずでした。

さらに新島が亡くなる約一年前の1889(明治22)年2月1日には『帝国憲法』が発布され、信教の自由が保障されてはいたのですが……新島のように、寺社との交渉が決裂するケースもしばしば見られたようです。

このような経緯があり、新島の遺体は若王子神社の山の上の墓所に眠ることになりました。

麓から30分ちかく歩くとかかるという場所ですが、ここが「同志社墓地」となり、新島襄の愛妻・八重、さらに八重の実兄の山本覚馬など家族・親族だけでなく、徳富蘇峰など愛弟子も葬られています。

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