雅倶楽部

内容も費用も納得できる葬儀にするための生涯無料の会員サービス。

ネット見積り

今すぐ簡単に葬儀費用のお見積りができます。個人情報の入力は不要です。

見学予約

ホール見学、事前相談、随時受付しております。ネット予約も可能です。

供花のご注文
コラム 堀江宏樹の葬儀文化史 presented by 雅倶楽部 2018年9月28日掲載

[牛丼屋顔負け] 法要担当はたった3人?徳川将軍家のお葬式

武家政治の首長たる徳川将軍家…そのお葬式はどのようなものだったのでしょうか?
本稿では、葬儀手法や埋葬所とのいざこざ…さらには、すき家に勝るとも劣らない3人での法要運用など、将軍家のお葬式の実態に迫ります。

このエントリーをはてなブックマークに追加

江戸時代、日本の実質的な責任者だった将軍が亡くなった場合、いったいどんなお葬式が行われたのでしょうか?

基本的なことをまず、おさらいしておきましょう。

将軍とは征夷大将軍の略称です。
とくに鎌倉時代以降、京都の朝廷から「天下の武力をつかさどる武家政治の首長(『日本大百科全書』)」として任命される重職です。

徳川家から出た初代征夷将軍・徳川家康は読者もご存じのように、死後は神・東照大権現となり、日光東照宮にその遺体は安置されました。

しかし二代将軍・徳川秀忠は、父の時代からの政治アドバイザーだった天海和尚による「あなたも父上のように神になって日光で祭られなさい」というアドバイスを拒否、先に亡くなっていた妻・お江が眠る芝の増上寺に自分も葬られたいと言い残したのでした。
これらのお話は長くなるため、またの機会に譲りましょう。

2つの菩提寺が生んだ軋轢

当時、徳川家は芝の増上寺(現在の港区)と上野の寛永寺(現在の江東区)という二つの菩提寺を江戸市中に持っていました。

将軍が亡くなると、二つの寺に交互に振り分けてその遺体を埋葬したという説明をよく聞きますが、制度化されたのは六代将軍・徳川家宣以降のことです。

たとえば三代将軍・徳川家光は祖父・家康に強く憧れていました。

その一方、彼は父の二代将軍・秀忠には愛憎半ばする気持ちがあったとされます。

家光は自分が死んだら、父母が眠る芝の増上寺ではなく、上野の寛永寺で葬儀は済ませ、遺体は祖父の眠る日光東照宮(の近く)にまで運んで埋葬するように遺言してしまいました。

芝の増上寺は、二代将軍・秀忠以降、すべての将軍をウチでお祭りできると思っていたため、激怒します。幕府にクレームを入れるというようなことまでありました。

家光の子どもの一人である、四代将軍・徳川家綱が自分の埋葬所を上野の寛永寺(当時の言葉で「東叡山」)に選んだのも、そういう芝の増上寺との軋轢があったからかもしれません。

また、秀忠に「神になれ」とアドバイスした天海和尚は、家綱のアドバイザーでもありましたし、その天海和尚が寛永寺の「山主」を勤めていたこともあったでしょう。

なお、天海和尚は数え年で108歳まで生き続けたため、この時、いまだバリバリの現役でした。

いったい葬儀はいつやるの?!暦上の吉凶に左右された将軍家の葬儀

延宝八(1680)年5月8日、徳川家綱は数え年で40歳の若さで、江戸城で亡くなりましたが、その翌日、幕府から老中・土井利房が寛永寺に派遣されます。

「亡くなった上様のご遺志どおり、寛永寺で葬儀を執り行いたい」との幕府のメッセージを伝え、同時に「葬儀・埋葬などに適切な日付を寺で決めて、幕府にお返事ください」と寛永寺に申し伝えたのでした。

この時まで、寺に埋葬の遺志を伝えていないのではありません。

家綱が寛永寺に眠ることになっているのは、霊廟が寛永寺の敷地内にすでに作られており、既定の路線です。

それにしても平安時代の帝と同じく、江戸幕府の将軍も暦上の吉凶で葬儀の日取りを決めていたわけですね。

こうして寛永寺は「早速動き出した」というものの、江戸城から家綱の遺骸が運びだされたの彼の死から6日ほど経過した5月14日の午後六時(酉の刻)ごろ。そして葬儀が行われる日にちは同月26日の午後六時ごろに決定したわけですが……驚くような、ゆったり進行ですね。

当時、貴人の葬儀が行われるのは常に夜でした。それにしても遺体の保存技術は平安時代のころととくには変わっておらず、この頃の5月といえば陰暦の夏ですからね。

現在の6月後半くらいの気温で遺体を二週間ほど安置しておくのは、様々な意味で大変だったのではないか……と案じられてなりません。

余談ですが、家綱の葬儀までに、家綱の近臣たち37名のうち、31名もの人々が剃髪、出家したといいます。

寛文三(1663)年、まさに家綱の命令で「殉死禁止令」が出された影響でした。

将軍家の法要はたった3人でまわしていた?!

さて家綱の遺体が寛永寺内の安置所に運び込まれてから、12日後の葬儀までいったい何をしていたのかというと、一日なんと三回もの長い法要が、それも毎日行われたそうです。

幕府の重役たちは仕事で忙しいため、ずっと法要に参加していられるのは決められた3名のみだったそうです。

26日の本葬儀も同じように法要が執り行われ、最後に三羽のタカを空に放った後(放鳥の儀)、家綱の遺体は霊廟に運び込まれます。

ここで読経など儀式を執り行った後、お棺は石室のような「石槨」に入れられ、土葬されます。

その上から一般的なお墓でいう墓石にあたる「宝塔」が乗せられ、埋葬は終了です。

ご存じのように、将軍の遺体は荼毘に付されません。土葬です。それだけでなく、こんなに珍しい方法で埋葬されたのですね。

宝塔の見た目は……強いて言葉で説明するより、検索していただければと思います。鐘の上に屋根が付けられたような姿をしています。

このように金属製もしくは石作りの宝塔の下に遺体を土葬するという埋葬法は、日本史の中でも江戸時代の徳川将軍家を中心とするごく限られた時期の高い身分の人々だけの特殊なものでした。

寛永寺や増上寺では機会が限られますが、将軍の墓所が公開されることもありますので、興味のある方はぜひお参りしてみてはいかがでしょうか……。

このエントリーをはてなブックマークに追加

堀江宏樹の葬儀文化史 presented by 雅倶楽部 22