明治維新を迎えた日本は急速に近代化されます。お葬式のトレンドもこのとき一新されていきました。
たとえば江戸時代は神道関係者ですら、純粋な神道式のお葬式を行うことは幕府の決まりで許されず、寺から僧侶を迎えなくてはいけないというルールすらありました。
それが真逆にひっくり返ってしまうという出来事が起きています。
大政奉還による国家宗教の変動
とつぜん、長年虐げられてきた神道のほうが仏教より格上になってしまったのですね。
国のトップがいわば幕府の将軍から、天皇家に移り変わっています。
ですから天照大神など天皇家の祖先をあがめる神道が国家宗教として注目されるという流れに急に切りかわってしまったのですね。
仏教寺院は下手すると破壊されてしまうという「廃仏毀釈」の嵐が吹き荒れ、明治六年(1873年)には、「仏教風」である理由から、火葬禁止令すら政府から出される結果となりました。
しかし、二年足らずで火葬禁止令は取り消されるという事態を迎えます。
日本国民全員が土葬にされるには、火葬にくらべ、大きな墓所が必要な土葬に必要なだけの土地をすべての国民が手に入れられるわけではないという現実問題に突き当たったからですね。
しかし、時代はもはや明治だなぁと感じさせられるのは、火葬に再許可がおりた後も、火葬中に発生する大量の煙や異臭は、火葬場の近隣住民の健康を害するという観点が重視され、一定の条件を備えた火葬場に国の営業許可が降りて、ようやく再開された……という形式に切りかわったことは注目されます。
明治時代の葬儀の案内はいかに?
さてそんな明治時代のお葬式でも一番重視されたのは江戸時代と同じように、葬列でした。
明治時代の典型的なお葬式は、現代と同じくお通夜からはじまります。
納棺と枕教が行われると、故人が亡くなったというしらせを遠方の知人のお宅をおとずれ、直接、口頭で伝えることが大事でした。
ハガキが使われるようになったのは大正時代から。一方、新聞での死亡告知は明治時代から存在していました。
その後のお通夜には親族や友人/知人だけでなく、同一町内の人がやって来ましたが、親族や向こう三軒隣などごく近所の人や、深い付き合いの知人だけが徹夜で故人の棺に付き従ったそうです。
しかし鳴り物入りの読経・法要が行われるため、お通夜の行われている家が近くにあると、物音がうるさくて眠れない状態ですらあったといいます。
葬列(=出棺)の開始時刻が火葬場に到着する時間を基に逆算されていたのはなぜ?!
その後、朝10時頃、もしくは午後1時か2時頃から、出棺の儀式が行われます。火葬場まで故人の遺体を納めたお棺を運んで行く、葬列の開始なのですが、東京の火葬場は町屋、桐ヶ谷、渋谷など当時の郊外にしかなかったため、東京の中心地からはけっこうな距離を歩くことになりました。
ちなみに当時の火葬場では、現代にくらべると火力が非常に弱いため、丸一日をかけて遺体を灰にしていきました。
しかし、火力が弱いということは、なかなか遺体が燃えないということ。
臭気がひどかったようですね。
ですから、火葬が行われるのは通例、夕方くらいからで、近隣の民家が戸を閉めた後の時間が考慮されたということです。
ただ歩くだけでなく、高張り提灯、生花、作り花、放鳥、迎え僧、香炉持ち、位牌持ち、棺……というように僧侶や故人にゆかりある人々が持ち物を掲げ、行列を成して進みました。ちなみに放鳥というのは、鳥かごに閉じ込められた鳩たちです。
出棺の時に放される時もあれば、斎場で……という場合もありました。
いずれにせよ故人の魂の成仏を願って、ここぞというタイミングで逃がされるためにわざわざ捕獲されていたわけで、ずいぶんと凝っていますね(ちなみに現代日本で、出棺時の放鳥……具体的には白い鳩を空に向かって羽ばたかせるという行為が復活傾向にあるそうです)。
葬列をサポートする葬儀社の登場
富裕層では行列は華美化する一方で、「家」のステイタスや予算に合わせて、葬列づくりを手助けしてくれる葬儀社が多数すでにこの頃には存在していたことがわかります。
たとえば、「神田鎌倉河岸葬儀社東京博善株式会社」もしくは「東京葬儀社」が富裕層向け……というように、TPOが決まっていたようです。
ちなみに江戸時代の東京では金持ちが火葬、庶民・貧民ほど土葬という傾向がありましたが、明治時代では両者の立場は逆転、裕福であればあるほど郊外の墓地に土葬可能な広大な墓所を持っているため、土葬になるという傾向も生まれています。
お葬式をことさらに豪華にするのは、死の暗い側面を隠すための工夫だったのかもしれません。
歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹
朝10時もしくは午後1~2時くらいに葬列が出発したのは、夕方の火葬開始の時間を考慮していたということでしょうね