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コラム 堀江宏樹の葬儀文化史 presented by 雅倶楽部 2021年8月30日掲載

死を悼んでいる私って素敵→【結果】葬儀が流行りました<結核が変えた死への美意識>

「美」の概念は様々ですが、大きな輝く瞳・細い首筋・バラ色に染まった頬・白い肌……等は、現代日本の美女像と言っても差し支えないのではないでしょうか。これら美女像が流行した背景には、実は「死病」と言われていた結核の流行があったことはあまり知られていません。
本稿では、結核が作り出した美のトレンドと、各国の「死」に対する概念について触れてみたいと思います。

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「美人」は時代を反映しています。そして確実にトレンドと、賞味期限があります。「たしかにキレイだけど、どっか古い。昭和顔」などと評する声を聞いたことはありませんか?

どういう外見的な要素を「美しい」と捉えるかは、時代によって異なります。

その一方で、大きな輝く瞳、細い首筋、ばら色に染まった頬、白い肌の持ち主を「美しい」とする感性は、現代日本の美女像とも大きく異なることはないのかな、と思われます。

輝く瞳とか、細い首筋……というのは、19世紀はじめの西ヨーロッパで主流だった美女像なのですが、実はこの美女像が流行した背景には、なんと「死病」だった結核の流行があったといわれています。

病気で苦しんだから痩せて細くもなれば、顔の肉もそげてしまって目が大きく見えているし、肌の色も青白くなる。夕方になると高熱が出るケースも多いので、頬だけが赤く見えるという「だけ」なのです。しかし、それが「美しい」とされ、結核への憧れを掻き立てていったというのですから皮肉ですよね。

さらには優れた人ほど神様の御下(みもと)に召されるのが早いなどといった「夭折こそがエリートの証」とする天才神話と結びつき、結核=美しい病、優れた人だけがなる素晴らしい病という奇妙な評価が作られてしまったのですね。

肺病患者こそが天才を発揮させるための要素?!

第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロン

とはいえ、19世紀初めのイギリスで主に結核になったのは、「美とは……」といった話をボンヤリ考えていられる知識層=上流層というわけではなく、貧しい労働者たちが中心ではありました。

1800年前後のイギリスは、歴史上もっとも高い結核による死亡者を輩出していた時期です。

当時は都市生活に憧れる農村からの流入人口が、都市のキャパシティを大きく上回っていた時期で、結局、多くなりすぎた人口のうち、貧しい層がひどい環境で暮らさざるをえなくなっていました。

そして、その結果、最悪の労働環境、最低の衛生観念での生活が、肺結核の温床となっていったわけですね。

しかし、まだ人間が生きていくのに必要な栄養の研究もほとんど進んでいないのが当時ですから、身分だけ高くても栄養状況はよろしくなく、結果的に上流階級にも多数の結核患者は現れました。

イギリスのロマン主義を代表する詩人で貴族のバイロン卿(1788-1824)の理想の死生観は「肺病で死ぬこと」。理由は「女たちがなんて美しい死に方をする人だろう」と言ってもらえるから、だそうで驚いてしまいますね。

肺病患者こそが天才を発揮させるための要素である……などということが医学書にも書かれていたという時代です。

自分の死に様だけでなく、葬儀を理想的に行いたいという欲求も、肺結核が大流行した19世紀はじめに上流階級から、社会のより多くの層に広がっていきました。

葬儀を熱心に行うようになった本当の理由

18世紀末にはよほどの関係でないかぎり、葬儀・葬列にも参加しないし、その後は墓参りもロクにしないのが「普通」だったのに対し、19世紀になると、人々はとたんに葬儀というものをより熱心に行うようになりました。

歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹

葬儀・葬列にも参加しない…

天才作曲家モーツァルトの妻・コンスタンツェも、夫の葬儀に出ていないし、墓参りもしていない。当時はそれが普通だったともいう。彼女は長生きしたが、19世紀になって、葬儀などへの不参加ゆえに「悪妻」といわれるようになった。

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結核という“美しい死に方をする病”が大流行した結果、“死”も何かロマンティックな何かに祭り上げられてしまった結果だと思われます。
死がロマンティックなものであれば、親しい者の死を悼んでいる姿も魅力的に見えたのでしょう。

親族や友人の遺体を収めた棺とともに葬列を組んで墓地まで歩き、祈祷を捧げ、いよいよ埋葬というときには花輪を投げ入れるという西洋風のお葬式でのおなじみの過程は、この頃に形成されました。

服喪期間もかなり伸びました。19世紀イギリスでの一般的な服喪期間は、性別や故人との関係性によって異なりましたが、夫を亡くした妻の場合、標準的な服喪期間は2年とされました。

しかし、1861年12月に夫・アルバート公を失ったヴィクトリア女王の服喪期間は40年以上にも及び、残りの生涯を彼女はつねに喪服、つまり黒いドレスで過ごしたことになります。

葬儀のための衣服である喪服が、それ以上にロマンティックな意味を持つようになり、亡き夫に貞操を誓い続ける女性が理想化された存在として社会の中で高められていたがゆえの行為であろうと思われます。

「死」に[美]も[醜]もない……と言い切るのが本当は科学的であり、“正しい”感性なのでしょう。

しかし日本の切腹などもそうですが、ある種の死を、その他の死よりも美しいと捉える感性は危ういものでありながら、ドライな現代人の心にも響く強い力を秘めている。それだけは否めない真実のように筆者には思われるのです。

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