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コラム エピローグ <偉人たちの最期> presented by 雅倶楽部 2019年5月6日掲載

「モーツァルト」浪費がたたって葬儀は最安プランだった?!

移り気な世間の人々に才能を消費され、その「才」をほんとうの意味では認められぬまま貧困の中で若死にした…そんな「神話」が語られる18世紀の作曲家モーツァルト。しかし、その天才神話は実は偽りでした。本稿では、そんなモーツァルトの生涯を追います。

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移り気な世間の人々に才能を消費され、その天才をほんとうの意味では認められぬまま貧困の中で若死にした・・・・・・そんな「神話」が語られる18世紀の作曲家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。

しかしそれはある意味、いつわりの天才神話でした。

近年、音楽学者のフォルクマール・ブラウンベーレンスが徹底調査した結果、1781年から1791年までの晩年のモーツァルトには平均で3000~4000グルデンほどの年収がありました。

当時の1グルデンは、現在の日本円では約1万円に相当するとされるので、数千万円以上の年収が、少なくとも10年間にも渡ってモーツァルトにはあったのです!

しかし、実際にモーツァルトには数千万円ほどの借金がありました。

貧乏ではあったのです。

ところがそれはモーツァルト自身の言葉でいう「真に純粋なもの、美しいものをすべて手に入れたい」というライフスタイルが原因だったようです。

高級なアパルトマンでの贅沢な生活にこだわり、賭け事への熱中が災いしたのでしょう。


「あの世からの使者」に絶望

約35年という彼の短い人生の最晩年にあたる1791年、その死の約半年前からモーツァルトが主に書いていたのは、なんとレクイエム(葬儀のための鎮魂ミサ曲)でした。

この年の夏のある日、モーツァルトのもとを匿名の男からの使者がおとずれ、レクイエムの作曲を依頼していたのです。モーツァルトはおのれの死を強く意識し、この「見知らぬ男」を「あの世からの使者」だと思いこんでしまったといいます。

モーツァルトの妻・コンスタンツェが語ったという興味深いエピソードがあります。

秋が深まるにつれ、健康がますます優れず、憂鬱さを隠せなくなったモーツァルトは、妻に「あのレクイエムを自分のために書いている」「自分はもう長くはない。僕は毒を飲まされたに違いない。僕はこの考えから逃れられない」・・・・・・

これは、コンスタンツェの知り合いで、後にモーツァルトの最初の伝記を書いたニッセンという人物の証言ですので、本当かどうかには疑問があるかもしれませんが。

実際にその「見知らぬ男」は、「あの世」どころか、作曲が趣味のフォン・ヴァルゼック=シュトゥパハ伯爵なる貴族がつかわした使者にすぎず、彼は亡き妻に捧げるためのレクイエムを作曲し、自分で指揮したがっていました。

しかし素人作曲家の技術力では、レクイエムなど大規模な声楽曲を完成させられません。

ですから、借金だらけと聞くモーツァルトに前金をわたし、秘密裏に作曲し、渡してくれることを条件にレクイエムを依頼したわけです。

どこかで聞いたような話ですが、あくまで自分の作品として演奏したかったわけですね。

ところがかつてない体調不良の中、鎮魂ミサ曲を作曲せねばならなくなった不幸なモーツァルトは「死」を強く意識し、ノイローゼにおちいり、「見知らぬ男」を「あの世からの使者」だと思いこんでしまったのでした。

「舌に死の味がする」…35歳での若すぎる死

そんなモーツァルトの創作生活も、1791年11月20日を境に一変することになりました。

ついに長年、彼を苦しめてきた細菌感染症が死病としてキバを剥いたのです。

モーツァルトは高熱を発し、手足は腫れ上がり、もはや身体を動かすことも困難でした。

その上、当時の医師たちのお決まりの手法の「瀉血」、つまり腕の血管などを切られ、血を搾り取られる「技術」で痛めつけられ、ついに朦朧としはじめます。

モーツァルトが病みわずらっていたのは15日ほどの間でした。

12月4日深夜、モーツァルトが「舌に死の味がする」とつぶやいたのを合図に、臨終が近づいていると悟った家族は教会の司祭と医者を呼びに飛び出ていきました。

しかし、医者はやってこようとせず(あのモーツァルトを救えなかった医者として歴史に名前を残すのを恐れていたとも)、しばらくしてようやく来たとおもえば、モーツァルトの額に冷たい水と酢を浸した布を置いただけでした。

その結果、モーツァルトは身震いの後に嘔吐、ついに意識を失いました。

当時の医師の下した死因は「リウマチ性炎症熱」、12月5日、35歳での死でした。

浪費がたたり最下級の埋葬プランに

ここからもひどい話が続きます。

遺体が異様に臭ったため、検死は(逆に)省略されてしまいました。

モーツァルトの死の翌日の6日、ウィーンの中心部にあるシュテファン大聖堂(の地下納骨堂あたりの狭い部屋)で告別式に相当する身内だけの集まりが行われました。

ちなみにこの大聖堂でモーツァルトは結婚式も行っています。

しかしモーツァルトが浪費家だったため、彼の葬儀は非常に質素なものにならざるをえませんでした。

当時の習慣として「死んだらそれで終わり」というのが王侯貴族以外の常識だったにせよ、埋葬の正確な日時さえ残されていない、誰も記録していないのはたしかに異常だと思われます。

おそらく12月7日、モーツァルトは共同墓地に最下級の「三等」の方式で埋葬されることになりました。

しかし埋葬とはいえ、この日に土の中に埋めてもらってはいません。

遺体はズタ袋に入れられ、骨まで早く、キレイに腐ってしまうように石灰をまぶされたのですが、他に何人かの遺体が揃うまで、放置されているわけです。

穴を掘る墓掘り人の労力を節約するためです。

「三等」では7~8年後に土が掘り返され、次の遺体が埋められることになっていました。

こうして墓のどこに、いつ埋められたもわからないまま、モーツァルトの遺体は朽ち果ててしまったのでした。

神に愛されし者(=アマデウス)にはなれたのか?

モーツァルトの名前の一部の「アマデウス」は「神に愛された者」というような意味ですが、神に愛されても妻には愛されていなかったようです。

彼の妻のコンスタンツェは17年もの間、モーツァルトの墓参りをしようとしませんでした。

たしかに浪費家で、妻と子どもたち二人を残してロクに財産も残さず、早死してしまったモーツァルトは良い夫ではなかったでしょうが・・・・・・。

モーツァルトを失った後のコンスタンツェは、亡夫の貴重な未完成原稿を何を思ったか廃棄し、死後に高まったモーツァルトの名声を背景に、「モーツァルト未亡人の私が選ぶ才能ある音楽家」などの新聞や雑誌の企画に協力したり・・・・・・セレブリティきどりの言動を繰り返しています。

こうして、彼女には歴史的悪妻の汚名が与えられました。

モーツァルトには19世紀はじめごろから、根強い毒殺説がありました。

とくに「凡庸なサリエリが天才モーツァルトを憎んで殺した」という、本当は根も葉もない毒殺スキャンダルはヨーロッパ中に広がっていきました。

1825年にサリエリが亡くなった5年後、ロシアの作家プーシキンなどは「モーツァルトとサリエリ」という毒殺説に基づく戯曲を書いて発表しています。

サリエリが「毒殺を告白した!」というのですが、実際それは真実と異なっており、サリエリ本人はこの噂を悲しみ、否定しようとしていたそうです。

しかし、「凡庸な努力家VS天才の中の天才」という構図はあまりにセンセーショナルで噂話にはもってこいの面白さなのです。

サリエリが亡くなった1825年には、すでに「ピアノの詩人」フレデリック・ショパンが最初の作品を書いています。

過去の名声はあっても、19世紀はじめの世間では「時代遅れの音楽家」、「生きる化石」のようになっていた老いたサリエリの叫びに耳を貸す者はいませんでした。

それにくらべ、モーツァルトのように評価が、彼の生きた時代をはるかに超えて続く天才もいるのです。

彼の死、そして死後の逸話には実に興味深いものがありますね。

歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹

サリエリについて

アントニオ・サリエリ(Antonio Salieri、1750‐1825)

19世紀以前のドイツでは、「芸術の国」というブランドをもつ、イタリア人芸術家が高い地位を得て成功することがありました。

ベローナ近郊で生まれたサリエリも、イタリア国内を出て、青年時代からウィーンを中心に活躍しています。

現在では、その作品は演奏されませんが、1788年から1824年までは、ウィーンの宮廷楽長を務め,また1788年から95年までウィーン音楽芸術家協会会長をも兼任するという大音楽家でした。

晩年(1804年以降)は、流行の変化によって、作曲家としては世間に望まれる作品が書けないことをみとめ、教育活動に従事。

ベートーヴェン、シューベルト、チェルニーなどを養成したことで、音楽史に名前を残す程度の人物でした。

最晩年には、サリエリ自身が認めたという「モーツァルトを毒殺した」という説の風評被害を被っています。

そんなサリエリの知名度が急上昇したのは、20世紀後半、モーツァルト毒殺説をいわば蒸し返した、ピーター・シェーファー原作の戯曲『アマデウス』が大ヒット、映画化までされたからです。

『アマデウス』で繰り返しかたられる、努力型の凡才サリエリと、真の天才モーツァルトの対比は、その後、様々なジャンルに影響を与えました。意外なところでは、日本のアニメ『シュタインズ・ゲート ゼロ』にも彼の名前などが登場していたことをご記憶の方もおられるでしょうか。

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