行方不明の近藤勇の首。その在り処を推理するための手がかりとして、筆者が気になっているのは2つの埋葬情報の証言です。
近藤の介錯人「横倉喜三次」の証言
まずは、板橋にて近藤勇の斬首を担当することになった、横倉喜三次の証言です。
横倉が語っているのは、「東本願寺(略)法主自(みずから)大谷へ吊(ともらい)ニ相成ル」(=東本願寺の法主が、さらし首になった近藤勇を自らの手で、墓所として知られる東大谷の山のどこかにお埋めなさった)という“噂”です。
武士として最後まで誇り高く生きた近藤勇に強く共感した横倉は、自分が近藤の処刑で得た報奨金のすべてを使って、彼の地元・岐阜の寺で近藤の法要を行っているのです。そんな人物ゆえに、すくなくともウソや適当なことは書き残したりはしないでしょう。
しかし、逆に、そんな横倉にさえ、近藤の首の在処の情報を知ることはできなかったということでもあります。
侠客「会津小鉄(上坂仙吉)」の証言
もう一つ、興味深い証言があります。京都時代の近藤(と土方歳三)のために働いていた「侠客」の上坂仙吉(通称・会津小鉄)という人物の声です。
上坂は、新政府から旧幕軍の死者の弔いを禁じられていたにもかかわらず、彼らの遺体を埋葬してまわった義侠心あふれる人物でした。
侠客とは、悪くいえば「やくざ者」で、いわゆる「アウトロー」なのですが、上坂はわが身の危険を顧みず、正しいと思ったことを貫く、男気に溢れた人物であったことが推察されます。
その上坂に、当時、会津で新政府軍を迎え撃つべく戦っていた土方歳三から、“伝言”が届きました。「近藤の首を、会津まで運んでほしい」と望まれたというのです。
昭和40年代、『会津小鉄伝 粗筋』というタイトルで、上坂の後継者たちによって肉筆記録された“あらすじ”だけが現在に残されているのですが、それによると、近藤の首を埋葬したのも上坂自身で、上坂は首を掘り起こすと、それを会津まで運んだ……というのですね。
しかし、いかにアウトローな上坂といえども、京都から会津までのすべての関所にコネがあるわけでもなかったでしょう。
また、人間の首は想像以上に大きく、重たく、おまけに「ナマモノ」なのです。現在のようにエンバーミング(=遺体の腐敗防止)の技術があるわけでもなく、夏期にはいっそう腐敗の問題も考慮せねばなりません。
もっとも重要なファクターなのですが、そこまで“あらすじ”では語ってくれていないので、推理するしかありません。
筆者の推論になりますが、上坂は埋葬の前の段階として、腐敗しはじめていた近藤の首を自分の手で「荼毘に付していた」のではないでしょうか。
もしくは、“あらすじ”では上坂自身が埋めたことになっているけれど、東本願寺の法主に連絡を取り、埋葬された首の在り処を特別に突き止めたのかもしれません。
この場合も、すくなくとも発掘時に首は荼毘に付されている必要があると思われます。そうでなければ、腐敗臭などがあるでしょうから、持ち歩きは絶対に不可能でしょう。
一方、骨になった状態であれば、確実にコンパクトになり、重量も軽くなります。何かに隠して、関所を通りぬけることも不可能ではなくなります。
こうして、上坂は骨になった近藤の首とともに会津に向い、それを土方歳三に手渡すことに成功したのではないでしょうか。残された史料で読み解くかぎり、これがもっともまっとうな推論のような気が筆者にはしています。
なお、土方は盟友の首(の骨)を、会津の天寧寺には立派な首塚を作って、葬ってやったと伝えられています。その後、土方は北へ転戦しつづけ、最終的には「箱館戦争」で死亡、五稜郭の土になった……とされますが、これにも諸説あるのは興味深いところですね。
近藤首の在り処がおそらくは会津であろうということになると、次は胴体なのですが、実は首に引き続き(?)、胴体が眠っている場所にも定説がないのでした。次回は近藤の胴体の在り処を探ってみましょう。