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コラム エピローグ <偉人たちの最期> presented by 雅倶楽部 2021年5月1日掲載

【歴史の闇】新選組「近藤勇」の首と胴体はナゼみつからないのか?【前編】

かれこれ150年ほど前にしか過ぎない「明治維新」。それなのに解き明かせない歴史の謎が多くあります。
その一つに、近藤勇の「首」と「胴体」が行方不明になっている…というものがあります。本稿では、3回にわけて近藤勇の埋葬事情について筆者の調査成果を踏まえて詳しくお話していきたいと思います。

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2021年度のNHK大河ドラマ『青天を衝け』。ご存知のように渋沢栄一を主人公とする本作では、徳川慶喜が副主人公のような立場で描かれています。慶喜公といえば、幕府に忠誠を誓った新選組の面々とは、いわば「愛憎半ばする」ような関係だと思われます。

ちなみに『青天を衝け』では土方歳三役が町田啓太さんと発表されているものの、近藤勇役の発表は本稿執筆時点でまだありません。それで思い出したのが近藤勇の首の「真の在り処」です。

本連載で、新選組の隊長であった近藤勇の首の謎めいた埋葬事情については以前、すこし触れました。

京都・三条河原でさらし首になった後、消え去ってしまったままというお話をしたのを、ご記憶の方がいらっしゃるかもしれませんね。

しかし、歴史の闇に消え去ったのは近藤の首だけではありません。実は胴体の在処も判然とはしていないのでした。

かれこれ150年ほど前にしか過ぎない「明治維新」。それなのに解き明かせない歴史の謎が多くあります。

その一つである、近藤勇の埋葬事情について、最近の筆者の調査成果を踏まえ、詳しくお話していきたいと思います。

武士の身分でありながら切腹は許されず

慶応4年(1868年)4月3日、近藤勇は現在の千葉県・流山で幕府の役人の手で捕縛されました。すでに約半年前、慶応3年10月14日、徳川慶喜による「大政奉還」が行われています。

農民出身でありながら、徳川幕府再興のため、最後まで戦いつづけていた近藤勇ですが、さすがに疲れが出てしまったようですね。

近藤の身柄は、江戸市中に近い板橋の地に移送されました。この頃、板橋は江戸郊外の宿場町という位置づけで、江戸市中には入りません。

4月11日、江戸城の「無血開城」が行われました。前年の「大政奉還」を受けてのことですが、幕府の瓦解は決定的なものとなったことを、板橋の地で近藤は知ったのです。

幕府再興を目指していた近藤には無念の知らせであったでしょう。
しかし「さすが」というか、最後まで近藤は落ち着いた態度を崩しませんでした。

近藤は農民出身ではありましたが、すでに将軍直属の武士である旗本の身分を得ていました。しかし、新政府側は武士には切腹させるものという幕府のルールを無視し 、平民の処刑法である斬首刑を近藤に執行したのです。

しかも処刑決定は当日で、急に近藤の身柄を京都に移送しなくてはならなくなり、生かして連行するより殺し、首にして運んだ良いと判断されたからでした。

また、処刑場もふだんは家畜の死体を処分するための「馬捨場」で、スリの常習犯の男と同時に処刑されるなど、これらのあまりの処遇には明治新政府による、近藤勇への“報復”が感じられてなりません。

しかし、最後まで近藤は落ち着いていました。自分に付き従ってくれていた部下2名の助命を新政府側に嘆願したり、処刑の役人に「ながながとご厄介に相成った」と、しっかりとした声で礼を述べた姿が子母澤寛の実録小説『新選組始末記』に描かれています。

『新選組始末記』は小説ではありますが、甥(後に養子)・近藤勇五郎に取材して書かれた作品なので、一定以上の信頼がおける資料であると筆者は考えます。

しかし……ここからの情報が奇妙に少ないのです。

たとえば大河ドラマなどでは近藤勇の処刑は、大勢の群衆に見守られる形で描かれることが多いのですが、実際、どういう形だったかについて記録・証言が存在していません。

また、板橋で近藤勇の首を晒したかどうかについての情報もまったくないのですね。

処刑時刻さえよくわかっていないのです。近藤勇五郎の証言によると「お昼頃」で、これは当時の処刑執行時間としてもっとも標準的な時刻です。しかし、歴史家・あさくらゆう氏の実証研究によると「夕刻七ツ時(午後4時40分頃)」が正しいのでは、という声もあり、定かではありません。

アルコール漬けで京都に運ばれた?!

なぜ、ここまで筆者が「さらし首になったのか」「時刻は何時だったか」についてこだわるかといえば、理由があります。

近藤が刑死した陰暦4月は、現在の暦では5月、つまり初夏にあたります。実は近藤の首が消えた=多数の持ち去り証言があるのですが、彼らは腐敗の問題とどう向かい合ったのだろうか?という疑問があるからです。

それは幕府の役人も同じこと。

江戸から京都まで首を運ぶ中で、腐りはじめては困りますよね。実際、近藤の首には防腐処置が施されていたようです。

塩漬け説もありますが、元・新選組隊士の永倉新八が伝えるところによると、「アルコウルにて首をしめ、西京三条河原へ曝(さら)す」(『浪士文久報国記事』)という、アルコール漬け説が正しいようですね。

在りし日の近藤を知る漢学者・依田學海によると、近藤の首は「顔色生くるが如し(『譚海』)」という証言もあるので、塩漬けではなかったのであろうと推察されます。

依田は近藤に同情的であったので、「慨嘆にたへず(悲しみを抑えられない)」と書き残していますが、これはごく一部の反応にすぎず、京都の庶民たちは、もともと新選組を恐怖の集団と感じていたこともあり、「あれは朝敵近藤勇の首」と、当時流行っていた戯れ歌『トンヤレ節』の一部を替え歌にして、囃し立てていたとのことです。

トンヤレ節

近藤の首は、京都の三条河原で4月8日から10日朝まで、さらし首になっていました。

しかし、その後、姿を消してしまったのです。おそらくこの時点で、腐敗が進み、あまり見たくない姿になってしまったので、新政府の役人たちのチェックも適当になっていたのではないか、と推察されます。

そもそも先述の通り、4月11日には江戸城が無血開城されたわけですが、これも直前まで新政府軍の総大将である西郷隆盛に、江戸攻撃を思いとどまるよう、勝海舟らが説得を続け、それに成功したからですね。

京都の新政府の関心は、三条河原の近藤勇の首より、あきらかに江戸方面に向けられていたと思われます。

しかし……首がなくなったということは、首が一人でどこかに行くことはありえなく、何者かによって持ち逃げされてしまったということになります。
一体どうなってしまったのでしょうか。

次回、この謎にもう少し迫ってみたいと思います。

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