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コラム エピローグ <偉人たちの最期> presented by 雅倶楽部 2018年10月20日掲載

最後の言葉は「これでおしまい」?不屈のヒト 勝海舟の最期

徳川幕府から新政府へと時代は移り変わっても変わらず重職を歴任した「勝海舟」。江戸無血開城に尽力し、西郷隆盛との交渉を成功させたのはご存知の方も多いはず。本稿では、そんな勝の最期をご紹介致します。

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「偉人」の評価は時代によって激変します。


江戸無血開城の裏にイギリスの影

慶応4(1868)年3月13日のこと。勝海舟は旧幕府陸軍総裁、つまり旧幕府の代表として、東征大総督府参謀、つまり官軍代表の西郷隆盛と池上本門寺で会談しています。

西郷隆盛が江戸のはずれの池上本門寺に陣を張っていたのは、江戸総攻撃のためでした。

「鳥羽伏見の戦い」で破れ、というか逃走してしまい、「朝敵」にされた主君・徳川慶喜のかわりに勝は西郷をなんとか説得、総攻撃を止めさせたとされます。この逸話は有名ですよね。

近年の研究では、西郷に江戸総攻撃を止めさせた本当の理由は、英国公使の説得もとい「脅迫」だったという説が出てきています。

当時の英国公使パークスは、西郷に「イギリスにとって江戸は大きなマーケット。英国の商売のさまたげは許さない。総攻撃は絶対にダメ」と強く反対、攻撃した場合の報復を恐れ、攻撃したくてたまらなかったのに西郷は断念したというのです。

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イギリスは薩摩藩の武器弾薬の類を援助していたのですね。

しかし……少なくとも勝海舟にとって、池上本門寺での西郷との会談と江戸総攻撃の回避は、彼の人生最大の成功体験であったようです。

池上本門寺からの帰り道、洗足池の茶屋で休息した勝は、その地の眺めを大変に気に入りました。

後に、別荘「洗足軒」を作らせてもいます。
それだけでなく墓もその地に作らせているのでした。

さて、お話が先に進みすぎました。
生前の勝の姿を、もう少し追って見てみましょう。

德川慶喜に代わり旧幕臣の面倒見に奔走

明治期の勝海舟は、新政府の参議、海軍卿、枢密顧問官といった重職を歴任、政治家として活躍する一方で旧主・徳川慶喜や徳川一族の復権に尽力する日々をすごしました。

以前のコラムでも触れましたが、明治31(1898)年、それまでの約30年を静岡での隠遁生活で過ごしていた徳川慶喜が皇居に参内、明治天皇に拝謁したのです。

つまり、幕末の朝敵の汚名がようやく取り消されたのですね。

この和解劇を舞台裏で準備していたのが勝海舟であり、当時の日記に彼は「我が苦心三十年少しく貫く処あるか」と記しています。

静岡に隠遁時代の徳川慶喜が、ほとんどノータッチだったのに対し、勝海舟が慶喜のかわりに旧幕臣たちの生活の世話や、彼らや優秀な子どもたちの留学援助、再就職先の斡旋まで執り行っていたことはあまり知られていません。

また、明治25(1892)年、勝の長男・小鹿が39歳で子どももいないままで亡くなり、青山墓地に埋葬が終わると、勝は徳川慶喜に彼の十男で精(くわし)を婿養子にもらいたいと願い出ます。

慶喜は大いに喜んだそうです。

慶喜は子だくさんでしたし、幕府を潰してしまった自分のことを怒っていると思っていた勝から養子の願い出があったので、「それほどまでに私を思ってくれていたのか」と考えたそうです。

「行いは己のもの 批判は他人のもの 知ったことではない」…不屈の人 勝海舟逝く

1899(明治32)年、1月19日、勝は風呂上がりにブランデーを飲んでいる時、突然倒れ、21日午後5時ごろに亡くなりました。

死因は脳溢血で、76歳でした。
最後の言葉は「これでおしまい」だったといわれます。

皇居からの勅使(使者)の来訪や、徳川一族、その他身分ある人々からの見舞があいつぐ中、慶喜の十男だった精が勝家に入った(正確には勝の長女の将来の婿として、婿養子に行った)のは、勝が亡くなる前日・20日のことでした。精はまだ11歳の少年でした。

勝のお葬式が青山葬祭場にて執り行われたのは、1月25日のこと。
激しい雪の降りしきる中のことでした。

勝の遺言で仏式(日蓮宗)のお葬式でした。

明治新政府は、神道を国家宗教とする政策を押し進めており、華族や政府の要人たちといった最上流階級は、よほど強く希望しないかぎり、神式の葬式をあげることが通例となっていました。

その中で勝は自分の葬儀を遺言どおり、伝統的な仏式のお葬式で厳粛に執り行わせたのでした。

政府内には勝海舟の生前の勲功を考え、国葬にする案もあったそうですが、本人が経費をできるだけ抑え、金が余れば貧しい人に寄付したいと強く願っていたため、勝に関係の深い海軍の諸兵団や軍楽隊、警察の騎馬隊などが派遣され、参列する「だけ」というこれまでに例のない待遇を受けることになったそうです。

先述の11歳の勝家の新当主・精は、つるばみ色の喪服で葬列に参加、降りしきる雪を払うこともなく、必死で喪主らしくしている様子が目撃されています。

歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹

青山葬祭場 ・・・

「青山墓地」に隣接した葬祭場(1935年、昭和10年からは「青山霊園」に改称)。青山墓地は1872(明治5)年に、公営墓地の第一号として開設され、とくに明治期~昭和中期までの政治家、軍人、文化人などの墓が多いことで知られます。

明治維新の関係者、もしくは維新を支持する人々の中には仏教から改宗とまではいかなくても、神道を尊ぶ者が多くいました。彼らには仏教式の葬式や、仏教寺院への埋葬を拒絶したがる傾向がありました。
こうした声をうけ、宗派に関係ない公営墓地の設立が計画され、その最初が「青山墓地」だったというわけです。

のちにいくつか公営墓地が作られていきますが、その中でも青山墓地への埋葬希望者が多かった理由は、交通手段が現代に比べればまだ限られていた当時、青山墓地のアクセスの良さが買われたのでしょう。

家族・親族だけが、ときどきお参りにくることを想定するのではなく、弟子やファンといった人々も自分のお墓に、日常的にお参りにくる来ることを想定しての選択だったと思われます。
近年は、アクセスのよさに加えて埋葬者の豪華さから、ブランド墓地になっているようですね

思い出の地に眠る海舟

青山葬儀場で仏式の葬儀を終えた勝の棺は、荏原郡馬込村の洗足池にほどちかい地に運ばれ、そこに葬られました(現在の大田区・洗足公園)。

現在もこの地に勝は眠っているのですが、「海舟」とだけ刻まれた、石づくりの五輪塔形式のお墓はシンプルでありながら、目立ちます。

これも勝の遺言通りでした。

墓の文字を揮毫(きごう)したのは、徳川慶喜だそうです。

ちなみに勝夫妻の五輪塔形式の墓の隣には、西郷隆盛の霊を弔うために勝が建てさせた「留魂祠」があります。

史実では江戸総攻撃に乗り気だった西郷を止めさせたものは、いったい本当は何だったかはともかく、勝海舟にとって西郷との会談は、一生一代の大舞台だったということでしょうね。

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