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コラム エピローグ <偉人たちの最期> presented by 雅倶楽部 2020年3月1日掲載

家康『いいか?絶対殉死するなよ?!絶対だぞ?(ネタフリ感)』…天下人 最期の言葉(信長・秀吉・家康)

「織田信長」「豊臣秀吉」「徳川家康」…天下をとった彼らは死に際に何を思ったのか。本稿では、『信長公記』などの書物から当時の様子を探りつつ、天下人たちの辞世の句をご紹介したいと思います。

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織田信長

Wikimedia Commons

是非に及ばず

織田信長の死は突然、訪れました。

天正10(1582)年6月2日、わずか2~30人ほどの家臣たちを引き連れ、京都での定宿だった本能寺に宿泊していた信長を、明智光秀が襲ったのです。

「信長・最後の言葉」として有名な「是非に及ばず」は『信長公記』という、織田信長最初の伝記の中に登場します。

最初期の織田信長研究者・太田牛一という人物が、「本能寺の変」の最中の信長の様子を知る人々(=解放され、生き延びた信長の侍女たち)にインタビューして書かれた書物に出てくるため、本当に発言されたという信頼度は高いのです。

ただ、この言葉の解釈には諸説あります。

辞書的には「仕方がない」などと訳されることが多いのですが、『信長公記』で文脈を確認すると、あわてふためく周囲の者を落ち着かせるべく、信長が一喝しているような感じでの発言だったことがわかります。

深夜の本能寺が「敵」に囲まれ、攻撃されていると気づいて寝所から出た信長は、周囲に「是れは謀叛か、如何なる者の企てぞ」と質問します。

「森乱」(=森蘭丸)が「明智光秀の謀反だと思われます」と伝えました。

筆者の推測ですが、森蘭丸の報告を聞いた周囲の者たちが「明智か!」「なにゆえ上様にご謀反を!」などと口々に騒ぎ立て始めたのでしょう。

だからこそ、信長は「是非に及ばず」と言ったのです。

つまり「(今さらそんなことを言っても)仕方がない!」と信長は言い捨て、たった一言で場の空気を切り替えようとしたのです。

その直後にみずから弓矢をとって、明智軍に立ち向かうことで、混乱していた家臣の心を戦闘モードにもっていかせようとしていたのだろう……と考えられます。

惜しくも信長は討ち死にし、全焼した本能寺からはその遺骨さえ見つかりませんでした。

しかし彼の「是非に及ばず」という言葉からは、彼のリーダー性の高さが感じられてなりません。

豊臣秀吉

Wikimedia Commons

露と落ち 露と消えにし 吾が身かな 浪花の事も 夢のまた夢

「ひとつぶの露が落ちて、消えていく間のような私の人生だったことよ。
大坂で極めた栄華の日々も、夢の中で見た夢のよう。実に、はかない」……とでも意訳できるでしょうか。

信長亡き後、織田家の勢力を強引に我がものとして成り上がった豊臣秀吉。
日本全国を統一、名実ともに「天下人」となりました。

しかし晩年は食が細り、やせこけていった豊臣秀吉の姿は、数えで61歳の「若さ」にして、「悪魔のようだ」とさえ宣教師にいわれる衰え方を見せていました。

彼の死の前日にあたる、慶長三年八月十八日付けで書かれた書状が残されているのですが、辞世の歌は、候補をふくめ、複数個作っていたようです。

最終的に「露と落ち」の歌を選び、死の前日に書きつけた……ということのようですが、晩年は認知症が疑われる症状に苦しんでいた秀吉のことですから、いざとなったときに記憶が途切れなかったのが不幸中の幸いでした。

秀吉は低い身分から成り上がりましたが、学習能力は非常に高く、書がうまく、手紙も達者、歌を詠むのも得意でした。

この歌もなかなかのものです。

世俗の権力を極めた「太閤(朝廷の最高権力者・関白を勤めた人への尊称)」として死ぬにもかかわらず、自分の生涯を「露」に例えるのは意外に思えるかもしれません。

しかし筆者には、秀吉が自分の死にふさわしいエピローグを演出しようとした想いの強さを逆に感じてしまいます。

徳川 家康

Wikimedia Commons

先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行けぬを 別れとぞ思ふ

諸説ありますが、徳川家康の辞世の歌として知られるのがこちらです。

健康マニアとして知られる家康、74歳という当時としてはかなりの高齢での大往生でした。

「私は一足先にあの世に旅立つ。残された者もいつかは私と同じように逝くのだ。
ただ、これまで私と行動をともにしてきたお前たちを連れてはいけない。これが別れというものなのだ」……と意訳できるでしょうか。

「殉死はするなよ」と念押ししているようにも思われます。

というのも、戦国の世では家臣たちの命は、武将の家の「財産」です。

その貴重な財産を、殉死という形でみすみす失うことは愚行であると家康は強く考えていたようです。

こうして徳川家康には一人の殉死者も出ませんでした。

こういうドライかつ実利的な考え方が戦国時代の武士の気風だとすると、真逆なのが江戸時代。

太平の世である江戸時代が進むにつれ、「忠義の証として、主君と共に死ぬことこそが武士道だ」などと解釈したがる人々も生まれました。

それこそ「武士道とは死ぬことを見つけたり」という『葉隠』を斜め読みしたような感じですね。

余談ですが、二代将軍・徳川秀忠には殉死者は一人だけでした。

具体的には秀忠の近習(=側近)で「衆道」の相手、つまり秀忠の男性の恋人だった森川重俊のみ。

三代将軍・家光には、彼の衆道の恋人が5人、殉死しました。

ちなみに四代将軍・家綱の治世中に、殉死禁止の法令が幕府から出されています。

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