お市の方
お市の方「さらぬだに うち寝(ぬ)る程も 夏の夜の 夢路をさそふ ほととぎすかな」
「今日は本当に短く感じた夏の夜でした。私たちを別れに誘っているような、ほととぎすの鳴き声であることよ」……文字面だけでは、恋人との暁の別れを惜しむような優雅な歌ですが、これがお市の方の辞世です。
この歌を彼女の二番目の夫・柴田勝家に詠んでしばらくした後、お市の方は絶命しました。
柴田の刀で胸を刺されたのです。
その後、柴田は側室などを次々と殺しゆき、最後にお市の方の遺骸に差し向かい、腹を十文字にかっさばいて死にました。
戦国武将の家に生まれた女性の運命は、なかなかにハードなものでしたが、お市の方はより過酷な人生を過ごしたのではないかと思われます。
お市の方は、あの織田信長の妹として生まれました。
20人以上いた織田信長の兄弟姉妹のうち、女性で本当の名前がわかる人はごくわずか。名前を残せることは、政略結婚で成功といえる結果を出せた場合の「特権」だと考えられています。
お市はその例外中の例外でした。
お市の最初の結婚生活は一男三女を授かるなど、幸せだったと考えられます。
しかし兄・信長と夫・浅井長政が敵対することで、離婚せざるをえなくなり、愛する夫や義理の家族は兄の手で死に追いやられてしまいました。
その後、しばらくを織田家で過ごしていたお市ですが、天正十(1582)年六月におきた「本能寺の変」で兄・信長が討ち死にし、織田家内の勢力図が大きく変動しているさなか、再婚することになりました。
相手は織田家の重臣・柴田勝家で、柴田は新参者の豊臣秀吉と対立していました。
お市は、お嬢様好みの秀吉に言い寄られていたのを嫌ったので、柴田に嫁ぐことにしたとも言われています。
柴田との結婚生活は、わずか半年間しかありませんでしたが、悪いものではなかったようです。
最初の夫・浅井長政との間に生まれた三人の娘も柴田に懐いていたようでした。
しかし秀吉と柴田は戦で雌雄を決することとなり、柴田は武運拙く破れてしまいました。
こういう時、正室は実家に戻してやるのが武将の家の習いなのですが、お市はそれを拒絶します。
そして夫・柴田と共に自害するのですが、死の直前に詠んだのが「さらぬだに」の歌でした。
細川ガラシャ
細川ガラシャ「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」
「命を散らすべき時季を知っているからこそ、花も人も美しい」……この歌を残し、細川ガラシャは自分の胸を家臣の長刀で突かせて絶命しました。恐らく、ですが聡明なガラシャは自分の悲惨な死を予想し、かねてより用意していたのかもしれません。
美しく聡明だったことで有名なガラシャの本名は明智玉(玉子)といいます。
あの明智光秀の娘として生まれた玉は、幼い頃から聡明で美しい女性でした。細川忠興に嫁いだのは十六歳の時でした。
すぐさま子宝に恵まれるなど、二人の関係は良好でした(最終的に三男二女を授かる)。
むしろ当時としては珍しいほどに相思相愛の夫婦だったともいます。
本能寺焼討之図
しかし、結婚から四年後の天正十(1582)年、玉の父・明智光秀が起こした「本能寺の変」がきっかけとなって、夫・細川忠興や婚家との関係は悪化し、二度ともとに戻ることはありませんでした。
「ガラシャ」とは玉が自分の人生に悩み、キリスト教に改宗したときに与えられた洗礼名です。
ガラシャ自身は信仰によって自分らしさを取り戻せましたが、夫・忠興との関係は悪化したままでした。
関ヶ原合戦図屏風
さて天下分け目の「関ヶ原の戦い」の直前の慶長五(1600)年、豊臣方に長年ついていた細川家ですが、徳川に味方することを考えはじめます。
そんなさなか、ガラシャの死が訪れました。
石田三成がさしむけてきた兵に、身柄を捕縛されそうになった直前のことでした。
石田三成
豊臣家の重臣・石田三成は、大名たちの間にひろがっていた謀反の動きを察知、妻子を人質にとることで、離反させないようにする作戦をたてたのです。
こうしてガラシャのいる細川家の屋敷も石田の兵に取り囲まれますが、ガラシャは逃亡ではなく死を選択します。
しかし彼女はクリスチャンで、自殺はキリストの教えに反します。
このため、家臣に長刀で自分の胸を突かせたのでした。
その後、ガラシャの遺体は細川家の屋敷ともども、大量の爆薬の爆発と共に吹き飛んでしまいました。
敵兵の目にさらすことを防ごうとした結果です。
細川家の抵抗の激しさにおどろいた石田は、他の大名の妻子も強引に引き取る作戦をやめさせます。
たしかにガラシャに死を選ばせたのは、夫・忠興の命でした。
しかし、ガラシャと細川忠興の夫婦仲はこれ以上ないくらいに悪化していましたが、忠興にはガラシャを独占したいという気持ちが病的なほどに高まっていました。
そもそもガラシャに死を命じたことも「ガラシャの身に危険がおよび、婦人としての名誉がきずつくようであれば……」という前提が付いていたわけです。
自分が殺したようなものなのに、ガラシャの死を、細川忠興は嘆き悲しみました。
ガラシャが救いをもとめてキリスト教に改宗した時、忠興はこれを妻の勝手な行為として激怒した過去がありました。
しかし彼女の死の翌年にあたる慶長六(1601)年、イエズス会の宣教師オルガンティノに依頼し、キリスト教式の葬儀を執り行なわせています。
また自身も家臣たちとともにガラシャの葬儀に参列しています。
もうすこし早く、忠興が妻・ガラシャに素直に振る舞えていたら、何かが変わっていたかもしれない……と悔やまれてなりません。