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コラム エピローグ <偉人たちの最期> presented by 雅倶楽部 2020年2月1日掲載

『もはや誰も頼れず』…長州藩の孤立無援を嘆いた幕末の志士「久坂玄瑞」の最期

吉田松陰率いる松下村塾の中でも将来を嘱望された1人だった「久坂玄瑞(長州藩)」。長州藩の未来を嘆いた彼は禁門の変を経て非業の死を遂げます。本稿では、吉田松陰とその妹「文子」との関係に触れつつ、その最期を追いたいと思います。

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吉田松陰

絹本着色吉田松陰像(自賛)

吉田松陰「親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん」

安政六(1859)年10月27日の朝、老中・間部詮勝暗殺未遂の罪で吉田松陰は処刑宣告され、その直後に斬首刑が執行されました。

松陰が斬首刑された理由…

本来、武士である吉田松陰を処刑する場合、切腹させるのが通常です。しかし彼は政治活動のために脱藩していたため、平民とおなじ斬首刑で命を落としました。

吉田松陰の辞世としては「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」……武蔵野(関東)の片隅の野で死んだとしても、私の魂だけは残していきたい……という一首が有名ですが、実はもうひとつ残されていました。

家族に宛てた、「親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん」という歌もあるのです。

「子供が親を思う気持ちよりも、さらに勝るものが親が子供を思う気持ちなのだ。それなのに、私が刑死したという知らせを親はどういう気持ちで知るのだろうか」……という、実に率直な歌なのですね。

松陰は、故郷・山口を発つ前日、背中を母・杉滝子に流してもらいながら「約束」をしていました。

「江戸に行っても、もう一度無事な顔を見せておくれよ」「お母さん、見せましょうとも、必ず息災な顔をお見せ申しますから、安心してお待ち下さい」……という会話が母子の間にはあったそうです(『婦人之友』1913年1月号に収録された松陰の妹・芳子のインタビュー記事より)。

息災について…

息災な顔=元気な顔 というような意味。
さすがに最近は見聞きしませんが、「仏力で災害を消滅させること」が原義です。

平安時代の『枕草子』あたりにはすでに用例のある言葉で、「息災延命」などとセット表記して「仏様の力添えで災難がなくなり、長生きできる」というようにも使いました。

吉田松陰は神道派だと思うので、そこまで意識していたとは思いませんが。

松陰は貧しい生活の中でも自分の教養を高めることをあきらめない母・杉滝子を尊敬していたので、自分が生きて山口に戻れないとわかった時、それは苦しみました。

不思議な話ですが、松陰が処刑された当日、その時刻にうたたねしてしまった杉滝子は夢を見たそうです。それは松陰が元気な顔を見せ、約束通りに「ただいま」といって帰ってきた夢だったそうです。

久坂玄瑞

wikimedia commons

久坂玄瑞「諸候頼むに足らず、公卿頼むに足らず」

吉田松陰が主催する「松下村塾」で、もっとも才能を買っていた生徒のひとりが久坂玄瑞でした。かなりの美男子だったともいわれます。

彼に自分の妹・文子を嫁がせ、彼らの子供にあとを継がせるのが松陰のひとつの夢だったそうですが……幕末維新の世はそれを許すことはありませんでした。

大河ドラマ『花燃ゆ』でもサラッと触れられていましたが、京都と山口などを行き来する久坂と文子に夫婦として過ごせる時間はごく少ないものでした。

もともと文子と久坂の二人が結婚してほしいと吉田松陰が思っていると、松下村塾の面々にウワサされた時、久坂は文子の「不別嬪」さを理由にイヤがったという記録が残されていたりします。

テレも大きかったかもしれませんね。

離れてくらす久坂から文子に恋歌(と呼べる和歌)が届いたこともありました。

文久二(1682)年の秋に、和歌で交流しようといって手紙に入れられてきた歌の一番最初がこれです。

いまさらに 逢う由を無み 逢坂の 山の端の月 影ぞ寒(さぶ)しも

……別れさせられた恋人女性にあてた歌のようでもありますが、まぁ、妻と離れた寂しさを詠んだともいえます。

久坂玄瑞はテレ屋さんですからね。

不器用な二人なりに、愛情はちゃんとあったのではないか、と筆者には思われます。

実際、久坂からきた手紙や歌を文子は装幀し、一冊の本にして生涯、大切にしていました。

しかし、そんな久坂と文子の結婚生活は突然終わりを告げます。

禁門の変 (別名「蛤御門の変」) wikimedia commons

久坂は赴任先の京都で「禁門の変」に遭遇して果てます。

長州軍と、会津藩・桑名藩、そして薩摩藩による”連合軍”が御所で激突し、久坂は善戦むなしく、負傷してしまいます。

親身になってくれていた公卿・鷹司輔煕(たかつかさ すけひろ)の屋敷に押し入って、天皇へのとりなしを希望したものの、冷たく断られてしまいました。

また、この直後、久坂玄瑞らを追った例の”連合軍”が鷹司邸におしいってきたため、邸内は大混乱となりました。

火の海の中で久坂玄瑞は松下村塾の戦友・寺島忠三郎と共に自害して果ててしまいました。

孤立無援になった長州勢の未来を嘆き、「諸候頼むに足らず、公卿頼むに足らず」と叫んだとも伝えられます。

誰も信頼できない……とは悲しい最後の言葉です。

数えで25歳の早すぎる死でした。


ちなみに鷹司邸の火事ですが、”連合軍”側は、久坂玄瑞ら長州勢が火を放ったといい、長州勢の生き残りは、”連合軍”側が……と主張しています。

鷹司邸だけでなく京都のあちこちから火事が発生、いつしか京都全土に炎は広がり、三日三晩燃え続けたのでした。

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