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コラム エピローグ <偉人たちの最期> presented by 雅倶楽部 2020年1月3日掲載

【悲報】天台宗「最澄」…愛弟子に『空海の方がイケてる』と逃げられる

仏教…そして、自身が布教する天台宗の発展のために愛弟子「泰範(たいはん)」と共に「空海」への弟子入りを志願。
しかし、空海への弟子入り後に期待した「真言密教」の共有は断られ愛弟子泰範は空海のもとに走るという悲しい結果に。
比叡山延暦寺の独立に奔走した伝教大師「最澄」の生涯を追います。

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最澄「心形久しく労して 一生ここに窮まれり」

神護景雲元(767)年、現在の滋賀県にあたる近江地方で生まれた最澄は14歳の若さで出家します。

当時の日本で信じられている仏教は小乗仏教といわれる教えが中心でした。

平たくいえば仏教の教えの恩恵をうけ、本当の悟りを開けるのはプロの出家者である僧侶だけという考えです。

また当時の日本で、僧は国家公務員資格です。

僧となれば税金なども免除されましたからね。

東大寺大仏殿

当初は税金逃れ目的のニセ僧侶が多かったので、僧となる資格を与えられるのは日本に三ヶ所だけある「戒壇院」で、授戒した者だけということになりました。

最澄は日本に三ヶ所だけある「戒壇院」のひとつ、奈良の東大寺で授戒。
正式な僧として認められたのです。

空海とともに遣唐使船で唐へ

遣唐使船(復元版/中国万博) : ぱちょぴ(投稿者) [CC BY-SA 3.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0)]

延暦23(804)年、最澄は空海らとともに中国(当時は唐王朝)に渡り、そこで天台宗の本拠地・天台山にて本場の教えを学びました。

ほかにも最澄は密教、大乗戒、禅の知識を授かって帰国しています。当初、空海とも仲がよかったのですね。

翌延暦24(805)年に早くも帰国、比叡山・延暦寺に戻り、天台宗をひろめることに尽力することになります。

空海が唐で専門的に学んだインド直伝の「密教」の教えを、最澄は共有してくれるものだと信じていたのですが、弘仁4(813)年、空海はそれをキッパリと拒否、最澄を悲しませたものでした。

実は空海より、最澄のほうが立場上は格上の地位にいたにもかかわらず、空海から密教の教えを受けるために、最澄は空海の弟子になるという宣誓までしています。

この時、最澄は愛弟子の泰範(たいはん)とともにその儀式をうけました。

しかし、その上で、空海は最澄の頼みを断っているわけです。
そもそも密教ですから、部外者には絶対の秘密ということなのでしょうが……。

歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹

延暦寺

延暦4(785)年、最澄は仏への誓いを書いた「願文(がんもん)」を作成、修験道の行者たちが入る山として知られていた比叡山に入り、活動拠点として小さな庵を作った。それが延暦寺のはじまりである。

延暦7年(788年)、最澄は自作の薬師如来像を本尊とする根本中堂(とはいっても、草庵的な小さな建物)を建てた。
これがのちの延暦寺の「礎」で、根本中堂を建てたことをもって、延暦寺のはじまりとする文献も多い。

なお、創建時の年号から「延暦寺」という寺号を名乗ることが朝廷に公認されたのは、弘仁14年(823年)のこと。最澄の死後のことだった。延暦寺は皇城鎮護の寺として知られる。

愛弟子「泰範」との別れ

愛弟子・泰範が空海のもとに走り、戻ってこなかった事件がありました。
後に泰範は空海の弟子としても有名になっています。

弟子をめぐる対立が、まるで三角関係のようだといわれるワンシーンなのですが、「帰ってきなさい」という最澄による何通もの手紙の返事を弟子ではなく、空海がついに書いて来た時、最澄と空海、彼らの亀裂は徹底的なものになりました。

(空海の説く)真言密教が(最澄の説く)天台宗よりも優れている

だから、弟子はあなたのところには帰らない…などとあったため、最澄の怒りとショックは大きかったでしょう。

最澄と空海は中国に同時に留学し、仏教を学んだ者同士です。

真言密教と天台宗、学んだ教えが違うからといって、いまさらながらにその優劣を競い合わねばならないとは最澄は考えてもいなかったのですね。

しかしそれでも最澄はあきらめません。
彼は延暦寺をあらたな戒壇院とする大きな夢をもっていました。

延暦寺 663highland [CC BY-SA 3.0 (http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/)]

それも、これまでのように小乗仏教のおしえによる戒壇院ではなく、僧以外の誰でも学べば仏教の教えの恩恵を受けることができる大乗仏教による「大乗戒壇」を、比叡山・延暦寺に置く許可を朝廷から得ようとしたのです。

これは、奈良に本拠地のあった小乗仏教の宗派からの独立を意味していました。

しかし朝廷の許可はおりぬままで、東大寺をはじめ既存勢力からは猛反発を喰らい、最澄は体調を崩して亡くなってしまったのでした。

「心形久しく労して 一生ここに窮まれり」とは、苦労の多いままの私の生涯というような意味で、疲労困憊しての死だったようです。弘仁13(822)年6月4日没、享年56歳。

最澄の弟子には朝廷の大物も含まれ、彼らの必死の斡旋がありました。

大乗戒壇の設立に勅許が降りた、つまり比叡山延暦寺の独立が朝廷によって公認されたのは、最澄の死から7日たってからのことでした。

最澄の名は「伝教大師」としても親しまれています。最澄の死後、40年余り後の貞観8(866)年、朝廷によって贈られたものです。 これは●●大師という敬称の使用が認められた日本人第一号でした。

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