松尾芭蕉
「奥の細道行脚之図」、芭蕉(左)と曾良(森川許六作)
松尾芭蕉「旅に病んで 夢は枯野を かけ巡る」
松尾芭蕉が亡くなったのは元禄七(1694)年10月12日の夕刻のことでした。
滞在先は、大坂・南御堂、芭蕉の俳諧の弟子だった花屋仁右衛門の貸座敷です。
亡くなる年の秋頃から、腹痛と頭痛がひどくなり、10月5日以来は寝込んでしまっていた芭蕉の最後の一句が
「旅に病んで 夢は枯野を かけ巡る」
でした。
俳句は和歌よりも短いため、解釈には何通りも生まれることが多いのですが、今回は
「旅先でついに病死することになったが、夢の中ではまだ旅をつづけている」というように訳しておきましょう。
病床で「枯野をめぐる夢心」と「夢は枯野をかけ巡る」のどちらがよいかを、弟子に相談するなどした記録があります。
陰暦の10月中旬といえば、現在の12月くらいですので、もはや冬枯れの季節です。
倒れてもなお、まだ先に進みたいのに……という芭蕉の悲壮な気持ちが表れているように思えますが、彼の死に様自体は穏やかなものでした。
軒先にいる弟子たちと、部屋の中で寝ている芭蕉は談笑していたのですが、ふいにある時、芭蕉がしゃべらなくなったそうです。
その瞬間、彼は息を引き取っていたのだそうな。
木曾義仲像(徳音寺所蔵)
なお、松尾芭蕉は木曽義仲の豪胆な生き様、悲劇的な最後に心を奪われておりました。
憧れるがあまり、彼の隣に自分を葬ってくれと遺言していたのです。
弟子たちは木曽義仲の墓(義仲寺の通称・木曽塚)のある滋賀まで芭蕉の遺体を運び、師匠の最後の願いを叶えてやりました。
あまり知られてはいませんが、こういう経緯で芭蕉と木曽義仲の墓は滋賀県の義仲寺に並んで存在しています。
それにしてもここまで詳しく彼の情報が現在に残されているのには、驚きます。
芭蕉が弟子に恵まれていたからでしょうね。
井原西鶴
井原西鶴像(生國魂神社)
井原西鶴「浮世の月 見過ごしにけり 末二年」
井原西鶴は、日本人なら誰でも知っている有名人です。
しかしそれは彼のペンネームです。
彼がどんな素性の生まれなのか、本名さえ実は明らかではありません。
一説に本名は平山藤五、富裕な大商人のボンボンだったともいいますが、確証はありません。
『色道大鏡』/国会図書館デジタルアーカイブ
そして、彼がどんな結婚生活をしていたのか……『色道大鏡』という著作を残している彼ですが、本当はどんな恋をしていたのかも、よくわからないのですね。
死に様も元禄六(1693)年8月10日に、大坂・鑓屋町(やりやちょう)の自宅で病のためになくなったということしかわからないのですね。
死因は結核だったと伝えられます。享年52歳でした。
彼の最後の句「浮世の月 見過ごしにけり 末二年」は、「人生は50年といわれているのに、2年も多く生きることが出来た。その二年ぶん、浮世の空にうかぶ月を眺められた幸せよ」とでも訳しておきましょうかね。
井原西鶴といえば江戸の文豪、今風にいえば小説家の走りのような人のイメージがありますね。
しかし、彼と文学の出会いは俳句でした。
ただ、井原西鶴の俳句は数が勝負の一発芸。
松尾芭蕉のように一句、一句の言葉を磨き抜いて表現するのではなく、パフォーマンスでした。
貞享元(1684)年6月には、和歌の神様が祀られている住吉神社の境内で、一昼夜ぶっとおしで2万3500句もの俳句を詠み散らかしたという記録を打ち立てています。
「小説」と先ほどは書きましたが、井原西鶴の代表作『好色一代男』『好色五人女』などは文学用語で「浮世草子」といいます。
『源氏物語』をパロディにした『好色一代男』はギャグっぽい側面もあるのですが、『好色五人女』は本当の恋を知ってしまった5人の女たちのうち、幸せなラストシーンは「ほぼ」描かれていません。
このため、江戸期の社会で本気の恋をしてしまったら、それは不幸のはじまりだったということが推察されるのです。
身分をとわず、結婚は就職先を決めるようなものでした。
単純に恋した相手と結ばれるのは非常に難しいことだったのです……。
近松門左衛門
近松門左衛門像
近松門左衛門「今わの際に言う(略)真の一大事は一字半言もなき倒惑」
「江戸のシェイクスピア」と呼ばれる近松門左衛門が亡くなったのは、享保九(1724)年11月22日のこと。
本名は杉森信盛で、もとは福井藩(現在の福井県)に仕える武士の子でした。
理由はわからないのですが、父が福井藩の仕事を辞してしまい、浪人になったので一家で京都に移り住み、そこで「文学」に目覚めたそうです。
もしくは彼自身が福井藩の仕事をなぜか辞めてしまい、京都に向かったとも……。
要するに「前半生はよくわからない」ということですね。
後に大阪に引っ越しし、人形浄瑠璃の劇作家として有名になりました。
死の約10日ほど前、おのれの死期を悟った近松は、自分の肖像画に文字を書き入れていました(つまり、「賛を入れる」行為)。
それが近松最後の言葉といわれるものですが、長いんですねぇ。
今回とりあげたのはその一節です。
「今わの際に言う(略)真の一大事は一字半言もなき倒惑」……言葉を補って訳せば、自分は劇作家として、言葉を書き散らかしてきたけど、本当に自分が死ぬぞという大事なときに、何か言うべき言葉は何も見つからないだろうことには当惑しちゃうなぁ……とでもなるでしょうか。
ちなみに、活動拠点だった大坂で亡くなったのであろうことはわかっているものの、近松門左衛門がどのように死んだのか、死因はなにかなどは一切明らかになっていません。
江戸時代、本当に愛し合っても、結婚はできない相手というものがありました。
そんな人と結ばれるには「一緒に死のう」というしかなかったわけです。
愛をつらぬくための自殺を「心中」と呼ぶようになりました。
歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹
正確には、髪や小指を切って相手にわたすなど、相手に自分の気持ちが本当であることを証明する行為がたくさんあり、その総称が「心中」。
その最高レベルの証明が、どうせこの世では添い遂げられない相手と、一緒に死ぬことだった。
心中するしか結ばれる手段のない、悲恋の男女を描いた劇作品で有名な近松ですが、『心中天網島』は67歳、『女殺油地獄(おんなごろしあぶらのじごく)』は68歳と、大器晩成型の作家でした。
業深い愛と死の話を、隠居の年齢でつぎつぎと書いていった近松……。
しかし彼自身に妻子がいたのかすらもわからないのですから、今となっては一種のミステリーですね。
歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹
「例外」ともいえるのは、『好色五人女』の中の「恋の山源五兵衛物語」。
男色家の男性「源五兵衛」が好きになってしまったので、彼に男装して近づき、無理やり肉体関係を結ぶ「おまん」の恋路が描かれます。
現代風にいうと、源五兵衛はバイセクシャルなのでしょうが、武士である彼に情事の責任をおわせ、それで結婚してもらう女の話なので、本当に幸せかどうかはわかりません……。