千利休
千利休像(長谷川等伯画、春屋宗園賛)
千利休「人生七十 力囲希咄 吾這寶剣 祖佛共殺」
「70年の人生だった。クソッタレ! この宝剣で先祖も仏も皆殺しだ」
千利休が豊臣秀吉との関係をこじらせ、堺の邸に蟄居させられてから2週間あまり。
切腹命令が大坂城にいる秀吉から届き、三千人もの兵隊で取り囲まれた邸の中で最後の茶会を開いた後、利休は切腹して果てました。
天正十九(1591)年2月28日のことでした。
処刑命令がくだされた理由は、実は現在でもわかっていません。
利休は秀吉をはじめ、身分の高い人びとを相手に、茶道師範だけをしているアーティストではありませんでした。
伝 千利休 竹花入「音曲」
ホントはタダみたいな値段のツボや器を、「利休ごのみ」というブランド価値を与えて転売、利休が巨額の儲けをせしめていたということもあるにはあったのでしょうが、そこにわざわざ天下人・秀吉が介入すべきこととも思えません。
彼が武器商人でもあったことが、悪影響を与えたのではという説があります。
利休の収入源の一つが武器商人だったことは史実です。
国宝の茶室「待庵(たいあん)」
茶室は完全な密室ですから、商談にはもってこいだったでしょうね。
NHKの大河ドラマ『真田丸』では、秀吉だけでなく、彼の敵にも利休が武器を卸していた事実が発覚し、反逆罪で殺されたという説明がなされていました。
ただし、これも確証があるというわけではなく、謎であることには変わりません。しかし、考えてもみてください。
利休の最後の言葉は要約すれば「クソッタレ! 皆殺しじゃ!」ですから。
原文は、切腹命令の届く3日ほど前、死を覚悟した利休本人によって書かれた遺偈(ゆいげ)です
「人生七十 力囲希咄
吾這寶剣 祖佛共殺」
力囲(りきい)、希咄(きとつ)は、共に禅宗でいう「掛け声」ですから、「えい!」「やー!」的に、やや上品に訳されることもあります。
が、「宝剣で、先祖の魂も仏も(あの世で)皆殺しだ」と続きますからね。
最後の言葉から読み取れる利休のメッセージは「怒り」と「無念」だけです。
利休はなにかに猛烈に怒っており、爆発した感情の生々しさは異例というべき率直さです。
彼が好んだ「詫び茶」の静かな世界をカモフラージュに、内面に野心をたぎらせていた人物だったということはわかるでしょう。
なお、利休が自害をもとめられた理由として、「娘を秀吉の側室にさせなかった」という説が語られがちですが、一次資料は一切ありません。
利休や秀吉の時代にはまったく語られてもおらず、江戸時代の茶人たちが、利休の謎の死を推理する中で生まれてしまった噂にすぎないのでした。
小堀遠州
頼久寺所蔵『小堀遠州像』
小堀遠州「昨日といひ 今日とくらしてなすことも なき身のゆめの さむるあけぼの」
小堀遠州こと小堀政一は、「大名茶人」として知られる人物です。
「昨日といひ 今日とくらしてなすことも なき身のゆめの さむるあけぼの」の歌ですが、意訳すれば
「昨日といい今日といい、のんべんだらりと暮らし、なすべきこともなにもない。そんな日々が死によって夢から覚めるように終わろうとしている」
……最終部分で、死の苦しみをそれとなく匂わせるあたり、戦国末期~江戸初期を代表する一流文化人の風格です。
亡くなる正保四(1647)年2月1日あたりから、「食あたり」が重なったとされますが、現代風にいえば胃腸風邪、もしくはノロウィルスのようなものでしょうか。
しかし体力を奪われたのか、2月6日には亡くなってしまっています。享年69歳でした。
辞世の和歌のように、本当に趣味三昧の気楽な隠居生活を彼が楽しめたかといえば、そうでもありません。
どこからか「公金1万両流用」の嫌疑がかかり、彼の政治生命どころかお家断絶の危機が降り掛かったこともありました。
しかし、茶道でつちかった江戸幕府高官からの信頼は厚く、なんとか事なきを得ています。
茶人としては、詫び茶を提唱する千利休に師事しつつ、かつての茶道の華やかな一面を、多少なりとも取り入れたのが、「綺麗さび」をモットーとしました。
利休以前の茶道は、豪華な茶器で、高級嗜好品であるお茶をたしなむという(インスタ映えしそうな)ホームパーティの趣を強く持っていました。
そのエッセンスを、小堀は自分の茶道に取り入れたかったのでしょう。
彼は造園技術にも秀でていました。
大阪城本丸、二条城二の丸、そして京都の仙洞御所などに彼の作った庭を現在でも見ることができます。