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コラム 堀江宏樹の「偉人の葬儀費用」 presented by 雅倶楽部 2022年11月1日掲載

【死後3日・予算2億円】「大久保利通」の国葬がスピード決済された本当の理由とは?!

事実上、日本において最初の国葬とされているのは、明治11年(1878年)5月17日に行われた大久保利通の葬儀です。現在の貨幣価値で約2億円、死後3日で執り行われた国葬には、どのような意味がこめられていたのでしょうか。

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令和4年(2022年)9月27日、安倍晋三元総理の国葬が行われました。政治家の国葬は、1967年、吉田茂元総理の例から数えて55年ぶりのこと。ずいぶんと間が空いた後、戦後2例目の国葬になります。もう過去の習慣だと多くの人が考えていたはずの国葬の復活の是非については、多くの議論を生むことになりました。

戦前でも国葬の実施には議会の承認が必要でしたが、さほど明確なルールがあったわけではありません。しかし、戦後日本では、戦前には(いちおうにせよ)存在した「国葬令」といった国葬を行う際の法的根拠がまったくないのです。

また、安倍元総理の国葬については、かつての国葬の伝統どおり、総額で16億円を超える出費を全て国費で賄うということになっており、この点でも賛否両論、大きな話題となりました。

歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹

総額で16億円を超える出費…2022年10月13日、想定より4億円ほど低い12億円台の出費になったという報告が政府からありました。主たる理由は海外からの要人の日本滞在日数が減ったため、とのこと。

しかし、戦前の国葬といえば、現代の貨幣価値では何億円に相当する費用が全額国費で、しかもわずか数日でスピード決済されていましたし、毎年のように国葬が行われた時期もあったというと驚くかもしれません。

明治時代の日本で開始され、2022年に突然の復活を遂げた国葬について、あらためて考えていきたいと思います。




いわゆる戦前、第二次世界大戦以前の社会において、国葬は頻繁に開催されていました。欧米から輸入され、明治期の日本に根付いた国葬という比較的新しい葬儀の伝統ですが、戦前においては天皇・皇后両陛下だけでなく、皇族の方々の葬儀も、しばしば国葬の扱いになっていましたし、天皇の重臣という扱いの政治家や軍人もその対象となっていたからです。

明治期最初の国葬は明治維新の立役者「大久保利通」

事実上、最初の国葬とされているのは、明治11年(1878年)、5月17日に行われた大久保利通の葬儀です。

明治維新の立役者として有名な薩摩藩出身の大久保は、維新後は新政府の高官として活躍し、巨額の収入を得ていました。しかし、彼はその収入の大部分を政府の赤字を補填するのに使ったり、教育の普及のために寄付していたので、ほとんど現金は手元にありませんでした。それどころか、彼には一説に8000円(明治初期の1円=現在の1万円くらいに相当。ゆえに現在の8000万円)という巨額の借金があったくらいです。

それなのに、大久保の葬儀を国葬にすると決定した明治新政府によって決定されたお棺は総桐製となり180円(=180万円)、葬儀費用は約2万円(=2億円)かかったと伝えられています。

大久保本人が聞いたら呆れかえるような大盤振る舞いを、赤字つづきの新政府がすることになった背景には「社会不安」がありました。大久保は暗殺されているのです。

明治11年(1878年)5月14日、大久保は現在の千代田区・紀尾井坂あたりを移動中に賊から襲われ、絶命しています(「紀尾井坂の変」)。

犯人は、大久保がその失脚に関与した(とされる)西郷隆盛の信奉者たちでした。新政府の姿勢に猛反対した士族たちによって西郷は担ぎ上げられ、故郷・薩摩において「西南戦争」を起こしましたが、1877年9月24日に敗死しています。
とにかく人気者だった西郷の死の余波は、それから半年後も日本中を揺るがしており、その犠牲となったのが大久保でした。

役人としての大久保には賛否両論あったものの、中心人物を失った政府が利害を超えて一致団結するため、そして民衆の心を一つにまとめあげる方策として考え出されたのが、大久保の国葬だったと思われます。

大久保の国葬の中心的なイベントは、神式で行われた葬儀より、派手な葬列でした。実際、江戸時代以前から、日本ではセレモニーよりも、故人の住まいから火葬場、そして埋葬地に向かって練り歩く葬列が重視され、金がかけられるほどよい式だとする価値観があったといいます。

実際、霞が関あたりにあった大久保邸から、青山墓地までを練り歩いた葬列については、実に事細かな情報が残されているので、どんな派手なパレードだったかを少し見てみましょう。

沿道に押しかける数万人の市民たち

まず騎馬姿の警視庁の役人たちが行列を先導し、ついで騎兵、工兵、葬送の音楽を奏でる陸軍楽隊、大砲六門を運ぶ砲兵一大隊が続きます。

その後、大久保の葬儀は神式で行われたので騎馬姿の神官たちが通り、次に「贈正二位右大臣大久保公柩」という文字の書かれた旗をなびかせながら、白綸子に包まれた、大久保の「長さ九尺(=2.7メートル)、幅五尺(=1.5メートル)の霊柩」が現れます。

それに付きそうように大久保の愛剣を掲げた従者、花などを抱えた者たちの次に、大久保が信頼していた部下で、葬儀の喪主だった吉井友実、そして大久保の数多くいる息子たちの中から四人が伝統的な貴人の喪服とされた白直垂に立烏帽子姿で馬に乗って続き、大久保の執事、そして大久保家と血縁の深い西郷家、大山家などの旧・薩摩藩関係者の人々が付きしたがいます。

さらに有栖川宮、伏見宮、北白川宮、山階宮といった皇族がた、ついで三条実美、岩倉という公家出身の明治新政府の高官、各国公使たち、そして大久保と交流のあった華族たちが延々と列をなして続いていくのでした。実際の行列はまだまだ続きましたが、以降については省略します。

めったに肉眼では見ることができない、明治政府の高官、皇族、華族といったセレブリティたちを一目見ようとおしかけた数万人もの市民たちが沿道には押しかけ、配置された警察官が治安の維持に目を光らせていました。

吉田、安倍元総理の国葬のメインイベントは、日本武道館でのセレモニーだったことと比較すると、国葬という名称は同じでも、式の本質がまったく違うことに気づきます。

しかし、国葬を行う真の目的の一つは、明治と現代でもあまり変わっていないかもしれません。亡くなった人の生前の功績を国をあげて惜しみ、讃えようということを名目に、むしろ、生き残った権力者たちが自分たちのために、功績ある人の死を利用する……シビアな表現になりますが、そう結論付けられるものだったのではないでしょうか。

国葬が執り行われたのは、大久保利通の死からわずか3日後?!

多くの反対を押し切って、岸田首相が強い意思で行った安倍元総理の国葬でしたが、忌日から国葬の実施まで3ヶ月弱後だったことを考えると、大久保の場合、彼の死から、現代日本の貨幣価値で約2億円の予算が、あっという間に決まり、国葬が行われるまでの期間がわずか3日だったことには驚いてしまいます。

明治維新後、日本人の生活は江戸時代よりも悪化していました。物価の大幅な上昇や、数々の内乱の勃発などの社会不安に人々は悩ませられていたのです。

大久保暗殺もその一つのあらわれだったのですが、暗殺された大久保を、新政府は国をあげて、テロの犠牲となった彼を「英雄」として祭り上げ、盛大な国葬を行うことで日本人の心を一致させ、求心力を高めようとしたのでした。

国葬で庶民の心まで動かすことなどできるのか、と思うかもしれません。しかし、今日のように、テレビやパソコン、スマホなどもなかった明治期の庶民たちにとって、華やかな葬列を見ることは、それ自体がひとつの大きな娯楽ともいえる状態で、役人たちが考えた国葬の意義はそこにあったはずです。

大赤字だった明治初期の日本政府が、スピード決済を行い、大枚を叩いて行った大久保の国葬。

約2万円の国葬費を現代の価値で2億円と紹介してきましたが、異なる時代の物価比較は非常に困難で、研究者によっては20億円に相当と考える人もいてもおかしくはありません。

国葬の直接的な効果だったといえるかはともかく、明治新政府の運営はその後、少しずつ落ち着いたものになっていきました。そして、明治期の政府がその後も国葬を頻発していく背景には、国葬という制度が体制にとって必要不可欠だったと考えることもできます。

明治の世とは遠く離れた、現代の日本において、総額で16億円(あるいはそれ以上)かかったという安倍元首相の国葬。その政治的効果はいかなるものとして、今後、表れてくるのでしょうか。

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