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コラム エピローグ <偉人たちの最期> presented by 雅倶楽部 2018年10月12日掲載

暗殺の原因は西郷隆盛?!『西郷どん』のキーパーソン大久保利通(瑛太)の最期

2018度の大河ドラマ『西郷どん』でも、キーパーソンとして登場している大久保利通(瑛太)。西郷を見捨てなければいけなかった苦悩とテロリストによって暗殺された大久保の当日の状況を振り返ってみたいと思います。

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本年度の大河ドラマ『西郷どん』でも、キーパーソンとして登場している大久保利通(瑛太)。

明治初期の新政府の役人には、残念ながら賄賂や汚職が横行していましたが、大久保だけはその手の問題とはまったく無縁のクリーンな人物だったといわれます。

上級役人を中心に、明治初期の国家公務員には巨額のサラリーが支払われていました。

他の政治家が莫大な資産を貯える一方、大久保が残したのはわずかな現金と8000円の借金だったといわれます(現在の貨幣価値で5000万円程度)。

この理由は、大久保が個人資産で国の赤字を埋めていたためでした。

利通暗殺さる!テロリスト化した西郷隆盛の信奉者たち

そんな滅私奉公の人だった大久保が暗殺されたのは、1878(明治11)年5月14日のこと。

大久保が「切り捨てた」とされる西郷隆盛、その信奉者たちに惨殺されてしまったのです。

1877(明治10)年の初頭から9月にかけ、西郷隆盛が中心人物となって起こした不平士族の反乱「西南戦争」が日本中を掻き乱し、西郷の自刃と共にようやく戦が終結して半年あまりのちの死でした。

かつて、西郷が熱心に主張した「征韓論」、つまり朝鮮王朝の武力鎮圧計画をめぐり、大久保と西郷は真正面から対立していました。

一時期、新政府内でも「征韓論」を支持する者が増えていた矢先に、大久保は西郷に対していわばクーデターを起こすように、仲間を巻き込み、西郷を失脚させてしまったのです。

親友・西郷を見捨てることは大久保にとってもつらかったでしょう。しかし、そうせざるをえない雰囲気がありました。

西郷隆盛を新政府から排除しなければならなかった理由

「征韓論」を熱心に主張していた時期の西郷隆盛は尋常ではありませんでした。

西郷の主張を手紙などからまとめると、国を続けていた朝鮮王朝に自身を派遣してくれ、そこで自分を死なせてくれなどと公然と言っているわけです(家近良樹『西郷隆盛』)。

この当時、西郷隆盛は極度の体調不良とメンタルの不調をひっきりなしに訴えていました。

世間のイメージとは異なりますが、史実の西郷は心身ともに強くはなかったようです。

「どうせ死ぬなら、武士として価値のある死に方をしたい」というのが西郷の本音でした。

自分の理想の死に場所を朝鮮半島に求め、朝鮮開国を求める自分が当地で暗殺されれば、日本は軍隊派遣の口実を得られるはずだという不穏な主張をしていました。

西郷の熱意に新政府内では賛同者が増えますが、大久保は情には流されませんでした。

二人は親友でしたから苦悩はあったでしょう。

しかしそんな酷い状態の西郷を、日本という国家の使節として送るわけにはいかないと判断、抵抗する西郷を新政府から排除するという苦肉の選択をせざるをえなくなった……というのが両者の決裂の真実に近いと思われます(今年の大河ドラマが二人の戦いをどう描くかはさておき)。

内務卿(明治初期の事実上の首相)となった大久保は、日本の近代化に努めました。

地租改正、殖産興業、富国強兵……歴史の教科書で学んだ四文字熟語ばかりですね。

しかし、西郷は死地を求めたのでしょう、鹿児島から西南戦争を起こしました。

過去の亡霊たちのような、維新後の日本に強い不満をいだく士族たちを束ね、負けるとわかって逆襲してきたのです。

本当に西郷が大久保率いる新政府に勝つつもりだったなら、海路で東京に向かい、そのまま皇居になだれ込み、天皇に直訴すれば良かったといわれます。

西郷は明治天皇の大のお気に入りでしたからね。

しかし歴史はそうなりませんでした。大久保率いる新政府が西郷の反乱軍に勝利するのですが、ようやく内政に内務卿として取り組めると思っていた大久保を襲ったのが、テロリスト化した西郷の信奉者だったというのですから……もう、運命の皮肉としかいいようがありませんね。

暗殺を予見?!利通が前島密に語った「予知夢」

大久保の新政府時代の同僚・前島密は、大久保から、その死の数日前に見たと語られたという悪夢の話を葬儀の席で皆に披露しました。

大久保が見たのは、自分が暴漢に襲われて頭を割られ、脳がうごめいているのを気持ち悪いと思ったという「予知夢」です。

大久保が暗殺された1878(明治11)年5月14日早朝、彼は予定通り裏霞ヶ関にあった自宅から馬車に乗り、皇居に向かっていました。

しかし四谷・紀尾井坂あたりで六人のテロリストの若者に馬車が取り囲まれ、大久保は滅多切りに殺されてしまいます。

先述の前島密が検屍に立ち会ったのですが、前島もかつてテロリストたちに襲われ、生死の境を彷徨った過去があるのですが、その前島が「光景誠に惨憺、茫然自失」「肉トビ骨砕ケ頭蓋裂ケ、頭脳ノミ尚微動スル」と証言するほど……本当に大久保が見た悪夢と同じような光景を目にして凍り付いてしまうほどの惨状でした。

また、検屍の結果、致命傷はクビに突き刺された短剣による一撃だったとされました。

大久保の死はその二日後にイギリスの新聞『ロンドン・タイムス』でも報じられ、「首相」が簡単に暗殺されてしまう日本の国際的な信用度は下がりました。

そんな中、新政府は大久保の葬儀をとにかく荘厳に行うことで、なんとか失った信用を取り戻そうと画策します。

イギリスの新聞に彼の死が報道された5月17日、長さ九尺(約2.7メートル)、幅五尺(約1.5メートル)の巨大な棺に収められた大久保の遺体は、五十人もの人夫たちに担がれ、騎馬姿の警視局(当時)の面々らに先導されるように、裏霞ヶ関の自宅から青山墓地に向かって進んでいきました。

それに皇族、華族、上級役人などがこぞって付き従うというパレードのような壮観で、彼らを一目見ようと押しかけてきた人々を巡査が立ち並び、牽制していました。

青山墓地内の仮神殿にて、大久保の葬儀は神式で執り行われ、彼の墓所は「一万五千円」かけて整備されたといいます(単純に試算すれば、現在の貨幣価値で一億円以上)。

余談ですが青山墓地は明治五年、神葬(神道式のお葬式)専門の埋葬地として開始され、のちに埋葬の自由をめぐる議論の中で、神仏両方、くわえてキリスト教のいずれの方法でも葬儀・埋葬が出来るようになったのでした。

歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹

大久保が亡くなった1888(明治11)年ごろの物価についてですが、1887(明治10)年に起きた西南戦争のせいでインフレーション(物価高騰)がその後数年にわたって起きています。このため、モノの値段ではなく、1880(明治13)年の労働者のサラリーを参考までにあげておきます。


大卒の初任給(月収)が8円。
巡査の初任給(月収)が4円。
1日あたりの大工の手間賃が34銭(100銭=1円)。
1日あたりの日雇い労働者の賃金が17銭。

1ヶ月5円ほどあれば、庶民としてはそれなりの生活が送れたようです。

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