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コラム 死と生の文化史<パンデミック編> presented by 雅倶楽部 2020年11月1日掲載

インフルエンザ…葬儀後の埋葬方法がウィルス拡散の原因だった?!

冬の到来と同時に流行するインフルエンザ。今では予防接種もあり「大事」になることは殆どありません。
そんな弱毒化したインフルエンザも、流行当初は多くの人々を死に至らしめる恐怖の病として恐れられていました。本稿では、古代ギリシャ・日本・世界におけるインフルエンザの歴史をザクっとご紹介いたします。

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厳冬期の日本の風物詩のようになってしまっているのが、インフルエンザの流行です。春めいた日がつづくと流行も終わりに近づいた気がして「ホッ」とするのは、筆者だけではないでしょう。

古代ギリシャのヒポクラテスも、次のようにインフルエンザ(と思しき病)についてこのように書いています。

「ある日、突然に多数の住民が高熱を出し、震え、咳がとまらなくなった。村中にこの病気は広がったが、あっという間に収まった」

これは紀元前412年の記録ですが、現在のインフルエンザの症状とほぼ変わらない気もしますね。

ただ、インフルエンザの毒性や伝染力の強弱は、流行の度に微妙に違っています。

つまりウィルスの異変速度が早いため、撲滅は非常に難しい病であり、共存していくしかない状態が、何千年も前から続いているといえるのです。

ちなみにインフルエンザの名称は1504年、イタリアで名付けられました。
「影響」を意味するイタリア語「influenza(インフルエンツァ)」です。寒気などの影響で生まれる特殊な病という意味だともいいますが、感染が広範囲に及ぶので社会的な影響が大きいということもあるでしょうね。

これが1743年、インフルエンツァが英語に訳され、「インフルエンザ」として世界中に広まりました。

日本ではいつからインフルエンザが流行したのか?

我が国でインフルエンザ(と思しき病)についての記録が見つかるのは貞観4年(862年)の記録が最初のようです(『日本疾病史』)。

記述があるのは『三代実録』という書物で、「都(=京都)で多くの人が咳き込み、死者が甚だ多く出てしまった」ということが書かれています。

清和天皇治世のこの時代と現代を比べると、過去のほうが人々の栄養状態や医療体制は格段に悪かったわけですから、死者が大量に出ただけでは、と感じる読者もいるでしょう。

しかし、インフルエンザは過去の日本において立派な死病として君臨しつづけた事実は無視できません。しかも、流行の回数が他の感染症にくらべて格段に多く、また感染力の高さから庶民から天皇家の人々にまで、被害は広く及びました。

寛弘7年(1010年)、時の東宮(=皇太子)がインフルエンザで亡くなっていますが、しきりに咳き込むほか、とくに苦しむそぶりもないまま絶命したということが『大鏡』に出てきます。

苦しまなかったというのは、一気に重篤化した上で死んでしまったとも読めますので、不気味なのです。この頃、インフルエンザは「咳病」「咳逆」あるいは「しわぶきの病」などといわれていました。「しわぶき」とは、咳の意味です。

江戸時代には風邪の一種とされながらも、大流行が起きた際には特別視され、その頃流行っていたものの名前をとって「お駒風(=風邪)」「お七風(=風邪)」などと呼ばれていました。

お駒は浄瑠璃のキャラクター、お七は(悲恋のヒロインのように歌舞伎などでは脚色され、民衆から人気が集まった)実在の火付け犯です。

また、江戸時代後期には「いんふりえんざ」という名称がすでに蘭医(=西洋医学の医師)たちの間で使われていました。

このように各時代を通じて決して珍しくはない病だったにせよ、今から約100年前、20世紀初頭の世界的なインフルエンザの大流行は、歴史すら変えてしまったと思われる特異さで知られます。

第一世界大戦中、インフルエンザで大打撃を受けたドイツ陣営

当時はヨーロッパ中が第一次世界大戦の真っ只中にありました。そこにインフルエンザの大流行がぶつかったのです。

第一次世界大戦をごく単純に解説すると、ドイツ軍と英仏、そして遅れて参戦してきた米による連合国軍の正面衝突です。

ドイツの軍事力は連合国軍の予想をはるかにこえて高く、戦線が膠着していました。それだけでなく最高司令官エーリッヒ・ルーデンドルフ将軍率いるドイツ軍は一時期、パリから約80キロにまで軍をすすめるなど、かなり有利ですらありました。

しかし、インフルエンザがドイツ陣営で流行りだすと20万人の兵士たちが病気で亡くなり、残った兵士たちも体力を落としていますから、武器を運ぶことさえできなくなり、そこに英仏米の連合軍の反撃を受けるとコロッと負けてしまいます。

英仏米の兵士たちも遅かれ早かれインフルエンザに感染、両軍の半数の兵士が戦闘ではなくインフルエンザで死んでしまいました。

この時に敗戦国とされたドイツには不当なまでの賠償金が英仏米によって課され、国家としてのドイツは破綻状態に陥ります。その混乱の中でたくみな経済政策を打ち出し、リーダーシップを発揮し、国民の大きな支持を集めてしまったのが、あのアドルフ・ヒトラー率いるナチスだったのです。

もし当時のインフルエンザの毒性がさほど高くなく、またあれほど流行らなければ、第一次世界大戦でドイツは英仏米に勝利していたかもしれませんし、それならば歴史は完全に変わり、ヒトラーの台頭もなかったといえるかもしれないのですね。

この時のインフルエンザのウィルスは、現在のものとくらべても強毒性だったといわれます。

当時、アラスカでインフルエンザで亡くなって埋葬されていた遺体を墓から掘り起こし、ウィルスの分離に成功したジェフリー・タウベンバーガー博士は、そのウィルスを実験用のラットに与えてみたところ、たちどころに死んでしまったことから、毒性の強さに驚いたといいます。

汽車電車人の中ではマスクせよ。外出の後はウガヒ忘るな

また、この時の流行から、世界中で感染症予防にはマスクという「常識」が定着することにもなりました。現在ではマスクの予防効果には疑問があるようですが、当時はこれしか手段がないのでみんな必死です。

今から約100年前の1920年1月、東京府下(当時)の巡査8000人にマスク着用命令が出ていますし、寄席には「マスクをなさい身の為人の為」などと”標語”が掲げられたそうです。

アメリカのサンフランシスコでは、インフルエンザを恐れるがあまり、過剰反応が見られたことで知られます。例えば、マスクをしていない者は警察が逮捕し、咳やくしゃみをした者は劇場にも入れてもらえません。
自警団が各市町村の入り口に立つようになり、顔見知り以外は中にもいれなくなるなど、警戒しすぎでトンチンカンな対応も目立つようになりました。怪しい薬や病除けを称する呪法なども飛び交うようになりました。

それから約百年後の現代日本でも、新型肺炎を恐れるがあまり、市中に過激ともいえる反応が見られるのを彷彿とさせますね。疫病の流行が、歴史を動かす、歴史を変えてしまうことも多々ありうる一方、人間の本質は変わらないようです。

また、欧米圏で感染が拡大したのはキリスト教徒ゆえに遺体をしかるべき葬儀の後、土葬するという習慣が大きかったかもしれませんね。けっきょく死体からもウィルスは拡散し続けてしまうのです……。

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