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コラム 死と生の文化史<パンデミック編> presented by 雅倶楽部 2020年6月30日掲載

【予防接種】孝明天皇「ノーセンキュー」朝廷関係者「俺たちは受けておこう(コソッ」→結果。・゚・(ノД`)・゚・。<天然痘の恐怖>

慶応2年12月25日(1867年1月30日)、日本の幕末史の一大転換点ともいえる大事件が京都で起きました。
数え年で36歳の孝明天皇の崩御です。その死因は「天然痘」だったとか。
本稿では、『中山忠能日記』など当時の資料をもとに孝明天皇の死について迫ります。

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慶応2年12月25日(1867年1月30日)、日本の幕末史の一大転換点ともいえる大事件が京都で起きました。数え年で36歳という、孝明天皇の崩御です。

歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹

孝明天皇…

孝明天皇といえば、現代日本では「知る人ぞ知る人」という程度の知名度かもしれません。
また、少し歴史を知る人たちには、孝明天皇は偉大なる明治天皇の父であり、外国ぎらいの昔気質(むかしかたぎ)の「伝統主義者」だったというイメージがあるかもしれません。
しかし江戸時代の天皇の中では強いリーダーシップの持ち主であり、外国の侵略を幕府と朝廷が緊密に提携(=公武合体)することで防ごうと画策する、かなりの「現実主義者」が孝明天皇だったと筆者は考えています。

孝明天皇の死因は天然痘だと公式に認められています。

前回のコラム(『【悲報】天然痘(552年)「治療法はありません」民衆「もはや祈るしか無い…」<仏教が流行った本当の理由>』)でお話したとおり、6世紀以降の日本史にしばしば登場する天然痘の流行は、江戸時代では約30年周期に起きており、そのたびに多くの人命を奪いました。幕末の当時も、流行が西日本を中心に起きているさなかのことでした。

天皇の死に毒殺説がつきまとうのはナゼ?

その犠牲者の一人が孝明天皇であったのですが、天皇の死にはなぜか毒殺説がつきまとっているのです。

大正時代に宮中の女官を勤めた女性の証言でも、孝明天皇の死は毒殺だったと女官の先輩から伝えられている(『椿の局の記』)などと語られていますし、現代でもなお「孝明天皇は暗殺されたのだ」という囁きは消えません。

その背景にあるのは、『現代の天皇や皇族方とは比べ物にならないほど、江戸時代の天皇の行動範囲はせまく、宮中の奥で、とくに誰かと日常的に会う機会もなく、ひっそりと暮らしているはずの(孝明)天皇が、天然痘に感染などするものか?』という根本的な疑いのようですね。

ただ、新型コロナウィルスによる肺炎でも、感染経路特定が困難なケースがあるように、それ以上に強い感染力を持っていたはずの天然痘の感染経路をつきとめることは非常に困難のように思うかも知れません。

しかし、さすがは天皇のケースだけあって、闘病記録なども鮮明に残されているのでした。

徳川慶喜を征夷大将軍に任命した6日後に…

孝明天皇の体調に異変があらわれたのは、慶応2年12月11日のこと。

歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹

慶応2年12月11日…

ちなみにこの6日前、孝明天皇は徳川慶喜を、征夷大将軍に任命しています。いうまでもなく徳川幕府・最後の将軍ですね。

12月11日夜9時ごろからは、宮中にて「内侍所臨時御神楽(ないしどころのりんじのみかぐら)」なる行事がありました。

歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹

臨時御神楽…

臨時とあるが、もともとは12月の吉日を選んで行われる「冬の邪気」を払うがための恒例神事。

しかし典医たちは天皇が「感冒」ゆえに体調不良であるとして、出席を止めさせようとしました。

歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹

体調不良時の儀式出席…

江戸時代も、現代の天皇と同じように出席必須の儀式は数多くあったが、天皇の体調が考慮されるケースも多かった。
天皇の侍医=宮中の言葉でいう「御医(おい)」であった伊良子光順(いらこ・みつおさ)の日記によると、天然痘発病直前の孝明天皇は風邪気味で、御神楽の儀式出席には「ドクターストップ」をかけられていた。それにもかわらず、儀式前に天皇は真冬の冷水を浴びて全身のケガレを落とす「水垢離」を行い、まったく暖房もない御所内で儀式に臨んだという記録がある。
孝明天皇は黒船におびやかされる日本の将来を強く憂い、神事には力を入れて望んでいた。しかし、かねてよりの体調不良にくわえ、たびかさなる無理が天皇の身体の免疫力を落とし、体内にひそんでいた天然痘のウィルスを急速に活性化させてしまったと考えられる。

責任感の強い天皇は「(病気を)押テ出御」してしまったのでした。

ところが天皇の体調不良は本人の想定した以上にひどくなり、朝までつづく儀式を途中で退席したというのです。

翌日である12日朝からは高い熱が出て、13日には寝たきりになりました。そして運命の15日、怪しい発疹がついに天皇の肌に現れます。

17日、ついに典医たちは天皇の病がおそろしい痘瘡、つまり天然痘であると認めざるをえなくなります。

明暗をわけた予防接種

歴史読み物などでは、実はそれは天然痘ではなく「ヒ素」などの毒が天皇の食事に混ぜられていたからだ……とも語られるのですが、たしかに天皇の病状は奇妙な経緯を見せました。
実は天皇はその後、回復傾向にあったのです。一時は「御色も御宜しき由」(『中山忠能日記』、12月17日)と言われていたにもかかわらず、その翌日以降、症状が再び激化、そのまま亡くなってしまうという不審な経過を経ていたのですね。
新型コロナウィルスによる感染症でもありましたが、一度は検査で陰性になったはずの人が再度、陽性となったケースでは、様々な憶測が飛び交いました。

ちょうどそれを思わせるようなことが、回復中だったはずの孝明天皇の突然死でも起きたのです。

やはり病には根本的に打ち勝てず、亡くなった「だけ」なのに、それが毒殺説にまで発展してしまったのですね。

また、孝明天皇の場合、天然痘の感染経路が不明ともいわれがちですが、さすがは天皇というVIPに仕える宮中関係者については記録が豊富に残されてているのです。

「藤丸」と呼ばれた天皇の雑用係である「児(ちご)」の少年が天然痘にかかり、12月10日に復職してきていたこともわかっています。

天然痘の潜伏期間はおよそ12日(7~16日)だそうで、復帰後の藤丸が孝明天皇に感染させてしまったというより、藤丸に具体的な天然痘の症状が出て、病欠する以前に、孝明天皇もおそらくは彼からウィルス感染させられてしまっていたのではないか……と考えたほうが理屈にはあいそうです。

しかし、女官や侍従など想像以上に多くの人たちが出入りしていたはずの当時の天皇周辺で、藤丸と孝明天皇しか天然痘にならなかったのには、重大な理由があります。

外国(文化)ぎらいだった孝明天皇は、当時すでに日本国内にも存在していた天然痘の種痘を受けていませんでした。

健康なときには毎日、和歌の指導を通じて面会していた皇子(後の明治天皇)に痘瘡を感染させてしまったのではないかと死の床の孝明天皇は危惧しましたが、皇子がすでに種痘を済ませていたことを伝えられ、安堵の表情を浮かべたそうです。

皇子たちに限らず、朝廷関係者の多くは天然痘の接種を(外国ぎらいの天皇の目から隠れるように)ひそかに受けていたといいます。それゆえ、この時の朝廷では例の藤丸と孝明天皇だけが天然痘に感染してしまったということかもしれませんね。

実は江戸時代、天然痘で天皇が亡くなった例は他にもあります。
後光明天皇が1654年(承応3年)、天然痘のため、22歳で崩御しています。こちらも突然の死で、毒殺説が出ました。

つまり、天然痘という死因が確定していたにせよ、天皇がとつぜん亡くなると、かならずといってよいほど毒殺説が流されるのが日本史のデフォルトといってもよいのです。

余談ですが、後光明天皇は遺体が荼毘に付された、江戸時代以降現在に至るまでの最後の天皇です。

一方、孝明天皇は天然痘で亡くなったがゆえ、遺体は感染防止の観点からは火葬にするべきだったのでしょうが、尊皇攘夷運動の流行にしたがい、古代の天皇風に土葬となっています。

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