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コラム 死と生の文化史<パンデミック編> presented by 雅倶楽部 2020年9月1日掲載

徳川綱吉が原因?大奥で天然痘/麻疹が流行った本当の理由

「生類憐れみの令」で有名な徳川綱吉。
実は、歴代徳川家の中で唯一「疫病」で亡くなった将軍でもあります。
本稿では、『続皇年代略記』『幕府祚胤伝』などの史料をもとに天然痘/風疹に翻弄された当時の様子をお伝えいたします。

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疫病の流行は、政治問題を常に引き起こすものです。

特に過去の時代においては、権力者の失政に対する「天の怒り」のあらわれのひとつが、疫病の流行であるなどと考えられがちだったからですね。

歴代徳川将軍の中で唯一、疫病で亡くなったのが徳川綱吉です。

犬公方「徳川綱吉」の悪政

歴史の時間、綱吉の名前とセットで覚えさせられる「生類憐れみの令」ですが、これは綱吉の治世の中で数多く出された動物愛護を目的とした迷惑条例の総称です。

現在のJR中野駅から高円寺駅にかけての広大な土地に、「犬小屋」が設けられ、人に害をなす野犬たちが収容されたのは有名な話ですが、史実をたどれば「犬小屋」の中での生活は豊かどころか、適当な管理しかなされておらず、むしろ緩やかな大量殺処分にすぎなかったことがわかります。

役人たちはその有様を「養育がむごい(『民間省要』)」などと書き記すほどでした。

歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹

「犬小屋」の中での生活……

実情はむしろ酷いものでした。広い土地に問題行動を見せる犬たとを離しているだけなのです。良くて形だけの管理がなされている程度、悪くて放置飼い。わかりやすくいえば多頭飼育に失敗したような、それは酷いものでした。
貧しい庶民たちはそんな現実をしらず、「犬だけ特別扱いされている」と怒り、残された野犬たちに危害を加える始末だったのです。

綱吉の犬小屋計画は「人に危害を加える野良犬でも殺すのはしのびない」という善意から始まったものでした。

しかし命令だけ出して、あとは現場に任せっぱなしの綱吉の情けないリーダーシップのせいで、人にも犬にも酷い結果しかもたらさないという悪政の典型例となっていったわけです。そういう綱吉の治世中には多くの天変地異が起きました。
とくに綱吉の死の前年にあたる宝永4年11月23日(1707年12月16日)は酷いものでした。

『五十三次名所図会 十四 原』/歌川広重

「宝永の大地震」が起き、富士山まで大噴火したのです。噴火は16日に渡って続き、現在の神奈川県一帯にすら約1メートルほどの灰が積もるほどでした。

江戸の空は舞い上がった灰のせいで昼でも薄暗く、作物は全滅。この世の終わりかだと人々を嘆かせました。

まさに綱吉の悪政に天が怒っていると考えられても仕方ない状況だったと思われます。

綱吉の死因は天然痘?それとも暗殺?!

江戸幕府、そして綱吉への不満は募りました。しかし、それでも日本ではフランス革命のような政府の転覆現象はかろうじて(?)起きませんでした。

この災害の直後の時期に綱吉が天然痘という、むごたらしい死に様で知られ、恐れられた病気で急死したこと……つまり、天の怒りによって誅殺されたような死を迎えたことが、徳川幕府の存続に有利だったのではないかと思われます。

しかも綱吉の御台所(正室)だった鷹司信子までもが、不仲だったはずの綱吉と同じ天然痘に感染、さらには天然痘が回復しかけた時に麻疹にもダブル感染したあげくに亡くなっているのです。ここに昔の人々が「天の怒り」を読み取らないわけがありません。

一方、大奥という世間から隔絶された空間で守られて暮らしていたはずの将軍夫妻が、相次いで流行り病である天然痘や、麻疹で亡くなったことは、あまりに異常だと思われたので、実は綱吉は御台所・信子から暗殺され、信子も自害を遂げたのでは……などという噂も飛び交うことになりましたが……。

ただ、江戸期の学者・小野高潔(1747-1829)がまとめた年代記『続皇年代略記』によると、1708年および1709年(=綱吉・信子夫妻が死去した年)には、痘瘡が江戸で流行っていたとの記録がありますし、『武江年表』によると、同じく1708年から1709年まで麻疹が大流行していたことがわかります。

「日本六十余州おしなめて、麻疹流行して男女老少を問はず、(略)貴となく、賎となく、此患にて死するもの多し」

『武江年表』

身分に関係なく、日本全国で大量の人々が風疹で死んでいったのですから、大奥にそのウィルスが伝わったところで何の不思議もありません。

大奥に蔓延した疫病…原因は、綱吉夫妻の死後の儀式

ちなみに上野の寛永寺にある鷹司信子の墓には、ある時期まで「信子様が悪さをなさる」との理由から金網がかけられていたといいます。

しかし、この謎めいた「信子様の悪さ」とは、具体的には鷹司信子の命を奪った天然痘・風疹が大奥に蔓延したことを指すのではないか、と筆者は考えています。

鷹司信子が上野・寛永寺に出棺されるまで、江戸城で行われた、埋葬に先立つ儀式について、『幕府祚胤伝』に次のような記録が残されています。

「宝永6年1月18日浄光院殿と号す。23日より違例なり。2月7日疱瘡快然の処、昨夜より勝れさせられず9日ご逝去。19日申下刻御出棺」

『幕府祚胤伝』

つまり、「1月18日、信子は綱吉が天然痘で死んだのを受けて、髪をおろして尼(浄光院)になった。しかし23日、信子にも天然痘の症状が現れ、苦しんだ。
2月7日には快方に向かったと見えていたのに、とつぜん体調がくずれ、亡くなってしまった。江戸城から上野寛永寺に向けて出棺の儀が19日の17時からとりおこなわれた」というように訳せます。

注目すべきは、当時の将軍・御台所は亡くなると宮廷装束に身を包まれ、座った姿勢をとらされ、死後10日ほども臣下による面会を許されるという儀式があったことです。
恐るべきことですが、天然痘などで亡くなったにもかかわらず綱吉・信子の遺体にこの儀式が行われているのですね。

高位の臣下は離れたところから、遺体に挨拶するだけです。しかし、夫婦の遺体に装束を着させたり、髪を整えた下仕えの者たちを中心に天然痘などの感染は拡大、その数はかなりなものになったのではないでしょうか……。

使用人たちにとって、それでも将軍だった綱吉を表立って批判することは心苦しいため、「信子様が悪さをなさる」とすべての「罪」を引き受けさせられたのが、その妻で(江戸城関係者にとってはどこまでもヨソモノである)京都の公家出身の鷹司信子であったのではないか、と筆者は考えるのです。

本来なら、徳川家のトップである将軍夫妻が相次いで、しかも流行病で亡くなるのは異常事態で、政権の求心力を奪いかねない出来事であろうと思われます。

しかし、悪政で知られる綱吉夫妻のむごたらしい病死は、逆に民衆たちの溜飲を下げさせる結果となったのです。

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