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コラム 死と生の文化史<パンデミック編> presented by 雅倶楽部 2020年8月8日掲載

開国が招き入れた悪魔「コレラ菌」…埋葬方法が感染拡大の原因だった?!

長年におよぶ鎖国体制が終わり、日本はアメリカなど諸外国との交流が始まります。
来日する外国人によって多くの情報、知識、文物が一気にもたらされた一方で、「疫病」も持ち込まれる事態に陥りました。
本稿では「文明開化」の負の側面として大流行した疫病『コレラ』について触れたいと思います。

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1854年(嘉永7年)、日本はアメリカ合衆国との間に「日米和親条約」を締結し、215年にもわたる「鎖国」の時代は終わりました。

徳川家光の治世だった1639年(寛永16年)の南蛮船入港禁止以来、徳川幕府は長崎、対馬、薩摩、松前の四箇所という限られた「窓口」を通じてしか、そして朝鮮や中国、そしてオランダなど限られた国としか交流を持とうとしていませんでした。

文明開化の光と影

『安愚楽鍋(仮名垣魯文)』/ 国立国会図書館デジタルコレクション

長年におよぶ鎖国体制が終わり、アメリカなど、これまで付き合いのなかった諸外国とも交流が始まると、多くの情報、知識、文物が来日する外国人によって一気にもたらされ、日本に文明開化が訪れます。

しかし、文明開化には裏の側面もありました。外国人を通じて、疫病が持ち込まれるという事態です。

コレラの大流行が、開国から約4年後、アメリカとの間に「日米通商航海条約」が締結された1858年(安政5年)に起きています。かつて1822年(文政5年)にも、朝鮮半島からもたらされたといわれる流行がありました。

朝鮮半島との交流拠点だった津島で最初の症例は現れました。医者たちは見たこともないコレラの病状にあわてふためき、「見急(けんきゅう)」と名付けています。中国への窓口だった九州などを最初のコレラ感染が見られた土地とする資料もありますね。

関西が西日本全体にひろがるにつれ、関西「三日ころり」などと、庶民の間では呼ばれるようになりました。

当時のコレラの感染力はあまりに強く、また病気の進行も早く、一日10リットルから数十リットルにも及ぶ激しい下痢の末、患者は脱水状態、ひいては意識不明におちいり、わずか数日でコロッと絶命してしまうのです。
三日ころりの名前の由来ですね。
大坂・京都なども大被害を受けましたが、コレラ菌は江戸には入らず、流行地域は限定されたものにとどまっていました。

人口密集地域「江戸」にコレラ襲来

愛宕山から見た江戸のパノラマ

しかし、1858年のコレラの大流行は違いました。

なんと約3年間も続き、日本全国に死者があふれたのです。「犯人」は「日米通商航海条約」締結のため、中国大陸を経由して日本に上陸したアメリカ船だったといわれます。

江戸をコレラが襲ったのは8月ごろで、この2ヶ月あまりで、約2万人もの死人が江戸市中に出ました。

それにしても人口密集地だった江戸の街でのコレラの感染拡大はすさまじいものがありました。
これには葬儀法が大きく影響していたようです。江戸の庶民たちにとって、一番、身近な埋葬法は土葬だったのです。

歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹

1858年のコレラの大流行…医者たちからは「暴瀉(ぼうしゃ)の病」などとコレラは呼ばれていたようです。下痢の激しさに驚愕したようですね。

薪代が非常に高かったこともあり、江戸での庶民の葬儀の大半は土葬でした。しかし、土葬にはそれなりの土地の確保、それから遺体を埋めるための穴を掘るなどの労働が必要です。

このため、コレラのように短期間で大量の死者を出してしまう疫病が流行すると、土葬が困難となるのですね。

こうして遺体は火葬されていきましたが、あまりに多くの遺体が連日発生するようになると、これらを燃やすための薪まで足りなくなってしまいます。

火葬場には棺桶の山が出来るほど。こうして埋葬されなかった遺体からコレラ菌は流出、感染はどんどん拡大してしまったというわけです。

文字通り「死が死を呼ぶ」恐怖の中、日本の人々はただコレラの流行が収まってくれるのを震えながら待つしかなかったのです。
幕末のコレラの大流行といえば、村上もとか先生の漫画『JIN-仁-』の前半の山場ともいえるシーンを思い出す読者もいるかもしれませんが、現実世界に仁先生はタイムトラベルしてきていません。

天然痘とコレラのダブルパンチ…死者は1年間で約94万人に

ポンペ(長崎医学伝習所/教授)を囲む養生所の医学生たち

結果的に、外国からもたらされたコレラの病から、日本を救ったのはこれまた外国からやってきていた長崎のオランダ人医師たちの尽力でした。

コレラの原因となるコレラ菌に汚染された生水が大きな感染経路となっていることは、すでにヨーロッパでは知られていたのです。

長崎奉行所にオランダ人医師たちは「生水・生物を口にしない」という当時では精一杯の予防法を伝え、この教えがコレラの発生件数を抑制したのです。

コレラの大流行は、蘭方医学とよばれ、鎖国時代には異端視されがちだった西洋医学の地位が、伝統的な東洋医学よりもあがっていくきっかけとなったのです。
しかし、この最初の大流行以降、コレラ菌はすっかり日本に根付いてしまい、明治時代になってからも、収まってはぶり返すことを繰り返しました。1886年(明治19年)はとくに酷い年でした。

大流行を再度見せたコレラ、そして天然痘などの流行が重なり、この一年だけでなんと約94万人が伝染病による死を迎えています。

感染症の流行に苦しめられる一方だった人口密集地帯・東京ですが、嘆かわしい流れが変わったのは1898年(明治31年)のこと。
東京市の取り組みで上水道の整備開始が始まったのです。これ以来、汚染された水が原因となって感染が拡大されるコレラなどの感染症の発生はようやく下火となっていきました。

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