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コラム 堀江宏樹の「世界のお葬式」 presented by 雅倶楽部 2022年6月1日掲載

沖縄の風葬…岡本太郎が発端で消滅?!<風葬のバリエーション>

死後、遺体を犬や鳥の餌にして「食べられた期間が短ければ短かったほど徳が高かった」とするモンゴル。国によって考え方や弔い方が大きく変わる「風葬」。本稿では、風葬にどのようなバリエーションがあるのかご案内致します。

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かつては世界中で行われていた「風葬」。自然の中、もしくは特定の洞窟などに遺体を放置し、あるがままに朽ち果てることを良しとする埋葬法です。

歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹

日本でも、旅の途中で行き倒れたとされる、(元)絶世の美女・小野小町の骸骨が通行人に語りかける「卒塔婆小町」の伝承に、風葬が一般的だった時代の名残が見られます。いかに都から来た高貴な女性・小野小町であろうと、旅路で死ねば、その地域ではヨソモノ扱い。彼女の遺体は野ざらしのまま、庶民の遺棄された遺体と並んで朽ちていかざるを得なかったわけです。

モンゴルのドライな風葬

原始的なお弔いの一種に分類される風葬ですが、モンゴルでは、1920年の「モンゴル人民革命」までは現役の埋葬法だったという記録があります。風葬の場所として指定された草原に遺体が放置され、ハゲワシ、キツネや狼といった野生動物の餌にされていたのだとか。

19世紀後半、帝政ロシア時代の探検家ニコライ・プルジェヴァリスキーは、モンゴル人の風葬墓地を取材していますが、その時の衝撃を、嫌悪感を込めながら、次のように記しています。

「ウルガ河のすぐほとりの墓地では死体は土葬されず、犬や猛鳥が直接食べるように投げ出される」。モンゴル人の墓地は「骨の山で覆われ、その上を影のように犬どもが歩き回って」いたのだそうです。

しかし、当のモンゴル人はドライなもので、遺体を野原に放置開始してから3日以内に、骨だけ残してきれいに食べつくされた場合、故人の人徳は相当なものだった証、などといって喜びあったのです。

モンゴルの風葬は、古代以来の風葬の伝統がもっとも最近まで生き残っていたケースと考えてよいでしょう。現在のモンゴルでは、遺体の多くを土葬にしていますが……。

「芸術は爆発だ!」の岡本太郎が犯した禁忌

風葬に分類されるすべてのお弔いの方法が、故人の遺体を自然の中に放置し、朽ちるに任せるものだけではありません。

東南アジアから日本の沖縄など、ミクロネシアの海洋文化圏に位置する島国には、所定の場所に遺体を安置し、ムシロやカゴのようなもので遺体を覆うだけで、長い時間の中で白骨化するまでじっくり待って、その後、遺骨を回収、きれいに洗い清めた後に墓地に改葬するという、一風変わった埋葬法がありました。

また、沖縄本島の東に位置する久高島には、第二次世界大戦後になっても、自然の力を借りて遺体を白骨になるまで風化させた後に、親族の女性たちが洗骨を行って、改装するという伝統は健在でした。

この伝統が完全に廃止されたのは、昭和41年(1966年)、「芸術は爆発だ!」の発言で有名な岡本太郎が、関係者以外立ち入り禁止の久高島の風葬墓所に侵入、そこでの光景を撮影するだけでなく、お棺をこじ開け、その中の遺体の顔写真まで週刊誌に無断公開するという事件を起こしたからです。

遺族は大きなショックを受けました。批判の声が巻き上がり、家族の遺体を侮辱した岡本を起訴しようとした流れもありましたが、彼のようなヨソモノに二度と墓荒らしをされないよう、埋葬の方法を土葬もしくは火葬に変えようということになって、事件は終結しました。今ではすっかり忘れられているかもしれませんが、昭和中期のびっくり事件のひとつです。

一方、東南アジア系の住民が多いとされる、インド洋のマダガスカル共和国では、土葬と風葬の折衷型のようなお弔いが現在でも行われています。ちょうど沖縄本島のように家族単位の大きな墓が作られ、その石室の中には包帯でぐるぐる巻きにされた遺体が置かれているのです。

長い年月をかけ、包帯の中で遺体はミイラ化、もしくは白骨化してしまうのですが、それら遺体を毎年7月か8月に石室から取り出して並べ、その前で存命中の一族たちが陽気な宴を催す、「死者の復活」と呼ばれる、まるで日本の「お盆」のような祭事があるそうです。宴が終わると、遺体の包帯は新しいものに取り替えられ、また石室の中へ……。来年の宴の日が来るまで安置されているのでした。

土葬と風葬の折衷型 -樹木葬-

ほかにも「風葬」と「土葬」の折衷案とよべるような埋葬法は世界中に存在し、そのひとつが「樹木葬」と呼ばれるものです。現在では、故人の遺骨・遺灰を樹木の堆肥として利用するお弔いを「樹木葬」などと呼ぶケースが増えていますが、それとは完全に別もので、チベットなど北アジアの山岳地域で現在も散見される埋葬法があるのです。

現在では、東チベットや、四川省・青海省など、かつてはチベットの一部だった地域にだけ残る風習で、そこで樹木葬の対象になるのは、13歳までに亡くなった子供たちだけに限られるようですね。

ただ、現地の写真を見るに(『長江曜子『世界のお墓文化紀行』』)、木の股に小さなお棺を重ねるようにして安置している様子から、現代では、とくに両親が信心深い場合にだけ、ごく小さな幼児の遺体に対してのみ行われているお弔いなのであろうと推察されます。

チベットでは特別視される「天」に、死した我が子をいち早くお返ししようとする行為であり、次に生まれてくる時は、丈夫で元気な子になれますように……という切なる願いが込められているのでしょう。

意外かもしれませんが、朝鮮半島や、日本でも日本海側の樹木葬は存在していたとされます。「天」に向かって、その遺体の存在を明らかにしたいという意図はチベットと共通のように見えますが、朝鮮半島では多少、その意味合いが違いました。

朝鮮で木に吊るされるのは、天然痘や麻疹といった悪性の伝染病で亡くなった遺体だけだったそうです。それらを木に数日吊るした後、土葬するのでした。わざわざ遺体を木に吊るすのは、「天」に対して死の悲劇を訴え、「これ以上、感染が広まりませんように」という願いを伝えるためだったようですが、現実的にはウィルスや病原菌がよけいに伝播してしまう原因となっていたでしょうね。

余談ですが、空海に高野山に宗教施設を開山することを許可した嵯峨天皇の遺体を収めた棺が空を飛びはじめ、高野山の通称・棺懸桜(かんかけざくら)の木に引っかかって止まったという不思議な伝説があります。平安時代後期に成立した仏教文化史を記した『扶桑略記』には、すでに原型が見られる逸話です。語り継がれるうちに、棺ではなく棺の一部だけが飛んでいったとするなど、ヴァリエーションは多いものの、樹木葬を思い起こさせる点で興味深いものがありますね。

歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹

嵯峨天皇

承和9年(842年)7月15日、崩御。享年57歳。
空海の宗教活動に厚い庇護を与えただけでなく、親しい友人でもあった。

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