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コラム エピローグ <偉人たちの最期> presented by 雅倶楽部 2019年6月17日掲載

生きながらにカラダが腐敗?!妖父ヘンリー8世を父に持った「エリザベス女王(処女王)」の末路

生涯で一度も結婚しなかったため、処女王の呼び名があるエリザベス1世。
史上最も「有能なイギリス国王」と呼ばれた彼女の生い立ちから死まで…その一生を追いたいと思います。

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現在から約400年前のイギリスにもエリザベスと呼ばれる女王がいました。

通称「処女王」、エリザベス1世です。

生涯で一度も結婚しなかったため、処女王の呼び名がありますが、実際に処女であり続けたのかはわかりません。

25歳でイギリス国王に即位

さて、エリザベス一世の治世はイギリスの歴史の中で、確実にひとつの黄金時代でした。

史上、もっとも有能なイギリス国王とも評価されています。

エリザベス一世は25歳で国王に即位していますが、不幸な少女時代を過ごしました。

彼女の父王・ヘンリー8世からは目の敵のように扱われてきたのです。

ヘンリー8世は、とにかく男子に王位を継がせたいと願いすぎ、頭がおかしくなっていました。

王妃との間に子どもがあまり生まれない、生まれたところでエリザベスのように女の子が何人かいる「だけ」、という現実を受け入れられず、妃を6人も変えました。

「変える」といっても、当時のイギリスは、相手が性的不能者という位しか離婚できないカトリック国でしたからね。

離婚させてくれないならカトリックを棄教ということで、いわば離婚の正当化のために、英国国教会は生まれました。

エリザベスの母「アン・ブーリン」の悲しい結末

そこまでして彼が結婚したのがエリザベスの母のアン・ブーリンです。

しかし生まれたのは女児、つまりエリザベスだけでした。

3人目の王妃をむかえたら「今度こそ男の子を産んでくれるはず」という盲目的な期待というか欲望に突き動かされ、ヘンリー8世はアン・ブーリンに不貞の罪を覆いかぶせ、その首をハネて殺します。

母親の失脚と刑死以降、エリザベスもプリンセスの称号を(一時)失うなど、辛酸をなめる少女時代を過ごさざるをえませんでした。

長い紆余曲折の物語をはしょって伝えると、エリザベス以外に英国王位を継げる人物が王室にいなくなってしまい、彼女が25歳で女王として即位することになったのでした。

細く、長く、美しいといわれた自分の指に、イギリス国王の証である戴冠指輪のサファイアの輝きに、「ようやく自分は報われた」とエリザベスは思ったことでしょう。

その後、彼女は人一倍健康に注意し、毎朝、健康に良いとされてきたダンスを踊ったりしています。

というか、当時、成人した身分の高い女性が、品位を貶めることなくできる運動がダンスくらいしかない側面もありますが。食事も控えめでした。

生きながらにカラダが腐敗…妖父「ヘンリー8世」

彼女の父・ヘンリー8世は、あらゆる欲望を抑えきれず、食べに食べまくり、145キロを突破。

またがった馬がへたりこむほど太っていました。

歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹

ヘンリー8世

生きながらにして腐敗しはじめたというバケモノのような身体を引きずっての晩年の生活はグロテスクそのもので、1547年55歳で亡くなりました。

鉛のお棺にヘンリーの遺体を入れ、密封したはずなのに、そしてその死からあまり時も経ていないのに、145キロの肉体が腐って大爆発。

鉛の棺をつきやぶって液体がモレだしたことなどをエリザベスも知っていたのでしょう。

そんな父親が反面教師になったエリザベスは、禁欲的に健康を保ち続ける努力をしていました。恒例となったダンスもそのひとつです。

彼女が処女王であり、結婚しないのも、政治的な理由だけでなく、崩壊家庭に育たざるをえなかった部分はあるかもしれません。(現代的な家庭の定義は、17世紀の上流階級には通用しないにせよ)。

しかしエリザベスの場合、結婚は「まだ」していないが、あきらめたわけではないという風に国内外の男性にアピールする必要もありました。
イギリス女王・エリザベスの夫となる・・・・・・つまり、実質的なイギリス国王になりうるチャンス狙いで、男性たちはえんえんとプロポーズを続けていました。

相手は男性ですから、相手が女王だったところで、男のプライドをかけ、求婚時にはエリザベスになんらかの「利益」を提供するわけですから、それにふさわしくあるよう、彼女は化粧やおしゃれにも気を使っていました。

そのせいもあり、例のダンスもそうですが、エリザベスは禁欲的に健康を保ち続ける努力をしました。

結婚は「まだ」していないが、あきらめたわけではないという風に国内外の男性にアピールする必要もありましたので(イギリス女王・エリザベスの地位狙いで、男性たちはえんえんとプロポーズを続けていました)、化粧やおしゃれにも気を使っていました。

しかし……当時の白粉には鉛が大量に含まれており、化粧するたびにエリザベスの肌は荒れてボロボロ、歯も腐って黒ずみボロボロという始末で、その痛みにエリザベスは苦しみました。

汚い肌をカバーするべく厚化粧に走ると、さらに肌がめちゃくちゃになるのです。

鉛のせいで抵抗力も落ちました。

むこうずねに大きな傷を負ってしまったあと、それが9年間も治らなかったりしましたが、死病というほどではありません。

もともとエリザベスは壮健だったからです。

座り続けたエリザベス…ベッドに入るのを拒否した理由とは?!

しかし……元気な女王も加齢から逃れる術はありませんでした。

1603年、69歳になると彼女の健康は目立って衰え始めます。

例のサファイアの戴冠指輪がむくんで膨れた指に食い込んで痛いのです。

ノコで指輪を切り、サイズ調整せざるをえなくなった時、エリザベスは動揺しました。そしてその後、公の場を避けるようになりました。

それでも「死」は彼女を追いかけてきます。

彼女の喉は感染症で腫れ上がって高熱が出はじめましたが、エリザベスはベッドに入ることを拒絶しました。

床にクッションを敷いてもらい、そこに座り続けるエリザベスは微動だにしませんでした。

眠ればもう二度と目が覚めないことを、彼女は恐れていたようです。

国王が崩御すれば、その指から戴冠指輪が抜き取られ、次の国王になる人物のもとに運ばれていきます。

エリザベスは結婚しておらず、子どもがいません。そもそも「処女王」ですから。

エリザベスが死ねば、イギリスの王位は、エリザベスが大嫌いな女の息子のものになってしまうのです。

王の座は絶対に譲れない!

メアリー・スチュアート

「大嫌いな女」とは、エリザベスの従姉妹にあたるメアリー・スチュアートです。

女の武器を駆使して男たちを操り、イギリスの女王の座は自分のものだと堂々と主張していた、元・スコットランド女王メアリー・スチュアート。

政変でスコットランドをおわれたメアリー・スチュアートをエリザベスは一時、匿いました。

しかし庇護されている身の上なのに、メアリーは彼女に言い寄ってきた若い男をつかって、エリザベスを暗殺しようと画策したのです!

エリザベスは悩み、結果的にメアリーの処刑に同意しています。

しかしエリザベスの中で君主に即位した者は神に選ばれた身であり、その者を殺すことは神に逆らう大罪だと思われてならなかったのですね。

結果的に「まちがって処刑許可証にサインした」などいうひどい理由でメアリーの処刑は決定されました。

メアリーの処刑の様子

The execution of Mary, Queen of Scots, on 8 February 1587 at Fotheringhay Castle, Northamptonshire, England.

そのメアリー・スチュアートは死ぬ時、「私の終わりは、すべての始まりになる」と謎めいた言葉を残して、マサカリで断首されました。

独身のエリザベスは死んでも血をわけた後継者はいません。

しかしメアリー・スチュアートには男の子がおり、エリザベスの死後はその息子が、メアリー自身もしつこく狙っていたイギリス国王の座を得て、ジェームズ1世となるのです。

これを許せるわけもなく、エリザベスは床に座ったまま4日を過ごしました。

座っているのも苦しくなると、その後は15時間もその場に立っていたそうです。

しかしついに意識が混濁し、ついにベッドに入るしかなくなったエリザベスは昏睡におちいりました。

最後の言葉はうわごとのように呟いた「メアリー・スチュアート」だったともいわれます。また、死因は肺炎だったとされています。

その後、エリザベスの遺体は防腐処置を施され、鉛の棺に収められました。そして、ロンドンのウェストミンスター寺院内に葬られたのでした。

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