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コラム エピローグ <偉人たちの最期> presented by 雅倶楽部 2019年6月23日掲載

ゴッホの葬儀がキリスト教会から拒否された驚きの理由

「生涯で売れた絵の数は一枚だけ」。死後に真価が認められ、作品の価値が上がるという事態は、芸術家によくありがちな悲喜劇。19世紀末のオランダで生まれ、フランスで活躍したヴィンセント・ヴァン・ゴッホの生涯を追います。

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死後に真価が認められ、作品の価値が上がるという事態は、芸術家によくありがちな悲喜劇です。

しかし、19世紀末のオランダで生まれ、フランスで活躍したヴィンセント・ヴァン・ゴッホの作品ほど、死後の値上がりが激しかった例はないでしょうね。

「生涯で売れた絵の数は一枚だけ」という、ゴッホ。

いや、売れたのは「一枚だけ」ではなく「数枚は売れた」というテオ・メーデンドルフによる説もありますが、19世紀末では市場価値ほぼゼロの画家だったことは間違いないでしょう。

そのゴッホの描いた一枚の『ひまわり』という絵に、約100年後、なんと58億円もの価値が付けられる事態など、当時は誰ひとり想像しなかったにちがいありません。

炎の画家の10年

ゴッホにとって、絵を描くことは、不器用な自分が社会とつながるための手段だったようです。

27歳にして、画家を志す前はいくつかの仕事を転々としつつも、雇い主と問題を起こしてクビとなるのが常でした。

教会関係のヴォランティア(無給)の仕事すらクビになったりしています。

画家になったところで絵が売れないので、画商をしていた弟・テオに送金してもらい、ゴッホは生活をなんとかしていました。

明るい光そのものに憧れ、黄色やオレンジといった色彩をちりばめた画ゆえに「炎の画家」ともいわれるゴッホですが、その創作姿勢も炎のように激しいものでした。

ゴッホの現存する作品数は、デッサン(素描)と油絵をあわせて約1700点ほどあるそうですが、画家としての活動期間はわずか10年でした。

弟・テオへの吐露

ある時期は一日一枚の猛ペースで油絵を仕上げており、このハードワークが彼が心を病んでしまう原因となりました。

もう一つ、彼を「狂気」に追いやったのは飲酒でした。

19世紀末のフランスでは、アブサンといわれる安酒が盛んに飲まれていました。

メチルアルコールなので安いわりに度数が高く、酔えるのですが、中毒になるなど身体に害が残ります。神経系もやられてしまうのですね。

弟「テオ」

1882年7月6日、ゴッホは数少ない理解者だった弟・テオに手紙を書きました。

この手紙の中でゴッホは「恐怖に駆られるような腹立たしいほどの憂鬱に襲われ」たと書き、これは彼の最初の狂気の訴えだとされています。

一方、「私は病気と闘っているのに、いくら闘っても私の性格はかわらないのだ」というゴッホの言葉には、器用には生きられなかった男の悲しみが溢れており、胸を打ちます。

その後もゴッホは創作に励みますが、あこがれていた兄貴分の画家に「捨てられた」ことをきっかけに、身を持ち崩してしまうのでした。

ポール・ゴーギャンとの出会いと別れ

1888年2月22日以降、ゴッホはそれまで暮らしていたパリを出て南仏アルルに向かっていました。

ポール・ゴーギャン

ゴッホは、例の兄貴分の画家「ポール・ゴーギャン」を指導者とする芸術家のコミュニティをアルルに作ろうとしており、興奮していました。

この時期のゴッホは14ヶ月にわたり、一週間につき平均4点もの油絵やスケッチを残すほどのペースで仕事を続けていました。

しかし、これは単純に嬉しかったというよりも、画家として、男として、ゴーギャンに一方的に負けていたくないというライバル心が働いていたこともムシできません。

残念なことに、ゴッホとゴーギャンは合いませんでした。

1888年10月にゴーギャンはパリからアルルに到着しますが、約2ヶ月もたたないうちに、ゴッホを残して去ろうとしはじめます。

ゴッホ終わりのはじまり「耳切事件」

コミュニティを作ろうという自分の夢が敗れることが確実になった時、ゴッホは自分の左耳を切り落とし、馴染みの娼婦に渡すという有名な事件を起こしました。

事件のきっかけとなった口論も彼女がいる娼館の近くで行われ、娼婦はゴッホだけでなく、ゴーギャンとも馴染みだったと言います。

そして、この事件をきっかけにゴッホは精神病院に入院し、何回か自殺未遂をはかったあげく、最終的に1890年7月27日、ピストル自殺を遂げてしまったのでした。

「耳切り事件」を報じる『ル・フォロム・レピュブリカン』紙

ゴッホが亡くなるきっかけとなった「耳切事件」なのですが、謎は多く残されています。

ゴッホは耳切事件の数ヶ月前から、様子がおかしく部屋の壁に「私は聖霊である。私の心は健全だ」という奇妙な言葉を書き付けたりで、周囲を不安にさせていました。

そんな彼のことですから、耳切事件のことも本人が「何も覚えていない」と証言すれば、医師たちも何の疑いもなく、「ゴッホが左耳を自分でカミソリで切り落とした」というカルテを作っていてもおかしくはありません。

しかし、関係者による正式な証言は、耳切事件から約14年ほどたった時、ゴーギャンが「自分と口論した後、ゴッホは部屋に戻って、耳を自分で切ったのだ」という一点のみしかなく、さまざまな疑問が残ります。

実際はアルルに護身用の刀剣を持ってきていたらしいゴーギャンが、ゴッホの耳を切り落としてしまったのだともいわれています。

レー医師による図

耳切事件後、入院したゴッホを担当した、フェリックス・レーという医師は、彼の左耳は、ほぼすべて切り落とされた状態だったこと、頸動脈まで傷ついていた切り方だったことをイラスト入りで、証言しています。

自力で、そんな切り落とし方ができるものなのでしょうか?

ゴッホは事件について何も語ろうとしないままでしたので、真実はわかりません。

しかし、彼の態度にはゴーギャンをかばおうとしていたのかもしれないというウラを感じずにはいられない気もするのですが・・・・・・。

なぜ?!葬儀馬車が借りれない!

さて先述のとおり、悲しい耳切事件の約2年後の1890年7月29日、ゴッホはピストル自殺を遂げました。

恐怖からか頭や心臓は撃ち抜けず、下腹部に弾が入った状態で、その36時間後に苦しみながらなくなりました(そういうゴッホが、左耳のほぼすべての部分を、自力で切り落とせるものかという話です)。

詳しい死因は内出血ではないかといわれていますが、不明。37歳の死でした。

彼がピストル自殺に至ったのは狂気の発作ゆえとも説明されがちです。

しかし、晩年になるほど、ゴッホの作風はさらに個性的になっていく一方で、「名作」といえる画を残し続けています。

一般的に精神病による狂気に襲われた画家たちが、作品と呼べるほどの完成度の作品は描けなくなっていく例が多いことが考えると、ゴッホを死に至らしめたのは彼の狂気というより、むしろ理性が過度に働き、未来に絶望してしまったからではないか・・・・・・などと思われてなりません。

ゴッホの葬儀はわびしいものでした。

自室に安置されていたお棺には白い布がかけられ、その上にゴッホが愛したひまわりなど黄色やオレンジ色の夏の花が友人たちの手でぎっしりと置かれていました。

しかし、ゴッホは自殺しているため、キリスト教の教会での葬儀が拒否されてしまいました。

さらに当時、埋葬する墓に遺体の入ったお棺を運ぶため、教会が所有する葬儀馬車が使われることが多かったのですが、自殺者には使用すら禁止されたので、ゴッホの家族・知人は困り果てました。

オーヴェルにあるファン・ゴッホ(左)と弟・テオの墓

GFreihalter [CC BY-SA 3.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0)], ウィキメディア・コモンズより

結果的に、理解を示してくれる隣村から葬儀馬車を借り、一切の宗教的な儀式などはないまま、ゴッホの遺骸は新しく出来たばかりの共同墓地に葬られたのです。

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