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コラム エピローグ <偉人たちの最期> presented by 雅倶楽部 2019年8月10日掲載

『徳川家はワシが退けた』…真田丸(幸村)の父「真田昌幸」が味方から総スカンを食らった本当の理由

真田信之・信繁兄弟の父「真田昌幸」。NHK大河ドラマ『真田丸』では草刈正雄が演じていたのが記憶に新しいところです。「ウラオモテがありすぎる」「卑怯者」と呼ばれたのは何故だったのか?彼の生涯について追います。

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真田信之・信繁兄弟の父が真田昌幸です。

NHK大河ドラマ『真田丸』では草刈正雄がヒトクセもフタクセもある「父上」を演じていた姿が、今でも鮮明に思い出されます。

当時の武将たちの手紙から見る昌幸のイメージは「表裏比興の者(ひょうりひきょうのもの)」。

つまり「ウラオモテがありすぎる」、「卑怯者」などと散々な言われ方です。

後世のわれわれには、そんな真田昌幸は「ザ・戦国武将」という感じで、魅力的に思える人物なのですが、彼に振り回される同時代の武将には煮ても焼いても食えないヤツだったに違いありません。

豊臣家への臣従が卑怯者のはじまり?

1586(天正14)年、徳川家との長年にわたるトラブルの結果、ついに真田家の居城・上田城が攻められることになりました。

詳細は省きますが、弱小勢力にすぎない真田家が、巨大勢力・徳川家に堂々と権利を主張しすぎて、徳川家が怒ってしまったのです。

現役時代の昌幸には、ものすごい自信がありました。

当時、真田昌幸を当主とする真田家は、臣従していた上杉家をスパッと裏切る形で、豊臣家に直属してしまっていました。

豊臣秀吉の希望でしたし、上杉家も豊臣家の配下ですから、最低限のスジは通っています。

しかし栄達目的があからさまに見えすぎる主君の「乗り換え」は、望ましい行為ではありませんでした。

野心が強すぎて仲間内から総スカン

AlexHe34 [CC BY-SA 3.0], ウィキメディア・コモンズ経由で

話を徳川家による真田家討伐(いわゆる「上田攻め」「上田合戦」)が決定したというあたりに戻りましょう。

豊臣家の重臣・石田三成と増田長盛は、真田家がもともと仕えていた上杉景勝に書状を送っています。

この中で

「真田は“表裏比興の者”だから成敗を加えられることになった」
「真田をあなた(=上杉景勝)は助けてはいけない」

などと言っているのでした。

“表裏比興の者”を文脈から取り出し、卑怯の当て字が「比興」ということから、そこまでネガティブな意味はないのではとも言われたりしますね。

しかし文脈からは確実にアウト。

生真面目な石田三成には、野心丸出しの真田昌幸は、とてつもなくうさんくさかったのでしょう。

なお、秀吉がとりなしに入り、徳川家の上田攻め(ちなみにこれで二回目)は途中で中止になります。

歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹

上田攻め(上田合戦)について

1585年と1600年の2度にわたり、徳川家の大軍を真田昌幸ひきいる真田軍が撃退した合戦のこと。

第一次は、真田昌幸が、上田・沼田の領土を確保するため、徳川軍と正面からぶつかった戦争。

第二次は、「関ヶ原の戦い」前夜、江戸から関ヶ原に向かう途中の徳川秀忠軍を、真田家が撃退した戦争。

軍事力では大きく劣るはずの真田家「ごとき」から居城をうばえぬ間に時間を老費し、徳川秀忠は「関ヶ原の戦い」に間に合わないという大失態を犯し、面目を失った。それだけでなく、家康の機嫌を大いに損ねてしまった。

真田家としては「徳川を二度も真田が撃退した!」と息巻いたようです。

しかしその後、石田三成は上杉景勝に上田攻めの中止連絡をいれているのですが、「“表裏者”だから成敗する予定だったが、ひとまず中止になった」などと手紙に書きました。

確実に石田に疎まれていますよね、真田家。

他人からも敵・味方というポジションに関係なく、心の底ではまったく信用されていないのが真田家、いや真田昌幸という男だったのが分かるのです。

これはただの一例ですが、このように “比興者”“表裏者”として戦国の世を渡ってきた昌幸も、その晩年、能力だけではどうしようもない難問に直面することになりました。

歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹

石田発言「“表裏者”だから成敗する予定だったが、ひとまず中止になった」について

じっさいに手を下す武将が石田ではないのに、石田が攻めるような口ぶりであるところが気になる方もいるでしょう。

よほど嫌がられているのだな、程度に思っておいてください。

かりに上田攻めの総大将に石田が抜擢されても、真田パパにはコテンパンにされてしまったでしょう。

石田は武将としての武勲がほぼ、まったくないことがコンプレックスでした。

また、石田にすれば汚いことばっかりやって、叩き上げで領地を拡大させてきた真田パパは憎たらしいのでしょう。

関ヶ原の合戦が生んだ一家分断

豊臣家と徳川家が激突することになった1600(慶長5)年の「関ヶ原の戦い」を前に、豊臣につく真田昌幸と信繁(=幸村)、徳川につく真田信之……というように一家を分断せざるをえなくなったのです。

苦渋の選択でした。

それまで彼が死守してきた身内は敵と味方に分かれますが、真田の「血」は絶えません。

関ヶ原の戦いは、豊臣・徳川のどちらが勝ってもおかしくない状況でした。

しかし結果は徳川の勝利となり、徳川家の重臣の娘と結婚しており、強いパイプをもっていた真田信之のとりなしにより、豊臣家について敗者となった昌幸と信繁は、高野山(現在の和歌山県)に流刑とされることになりました。

もともとは高野山で暮らすようにいわれていた昌幸と信繁ですが、あまりに寒いからでしょうか、ふもとあたりの九度山に降りてきて生活をしていたそうです。

とくにそれも問題視はされませんでした。

逆に言うと、「もう彼らは終わりだ。これくらいの情けはかけてやってもよい」と徳川方から同情さえされていたということです。

流刑地にて失意のうちに…

前途を絶たれ、貧しい幽閉生活の中で“比興者” 昌幸も為す術がありませんでした。

私はもはや「大草臥者(おおくたびれもの)」となった……と、真田信之に援助をもとめる手紙に代筆させるほど弱気になりました。

昌幸は失意から立ち直れぬまま、1611(慶長16)年の夏に亡くなります。

死の間際に徳川は豊臣の息の根を止めるために必ず、また攻めてくるはずだから、「大阪城で私の代わりに家康を討ってくれ」と遺言した……というような説があります。

信繁に「お前は私ではないから、無理だろうが」とも皮肉っぽく付け加えているのが、往時の“比興者”らしさを漂わせており、リアルなところもあるのですが。

『明良洪範』/国会図書館アーカイブ

ただし、これらは江戸時代中期に書かれた、『明良洪範』などに見られる逸話にすぎません。

父の死を伝える手紙などを真田信繁は書いていませんので(もしくはその手紙は、何らかの理由で失われてしまっているので)、真相は残念ながら闇の中です。

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