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コラム エピローグ <偉人たちの最期> presented by 雅倶楽部 2019年4月30日掲載

フランス王室が認めたルイ15世の『公式寵妃(愛人)』 <ロココの女王ポンパドゥールの最期の言葉>

ヴェルサイユ宮殿に見るロココ、王立窯となったセーヴル焼…これらはある夫人の庇護によって隆盛を誇りました。
本稿では、国王ルイ15世が霞むほどの手腕を持った公式寵妃「ポンパドゥール」の生涯を追います。

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ポンパドゥール夫人
(ルイ15世の愛人・1721年12月29日 - 1764年4月15日)
最期の言葉「お化粧したいからちょっと待って」

「ポンパドゥール」と聞けば、ねじってボリュームを加えた前髪のセット方法を思い出す人のほうが現在では多いかもしれませんね。

今回はその語源となったといわれる、あるフランスの貴婦人の話です。とはいっても彼女は国王陛下の愛人だったのですが・・・・・・。

王様の愛人という奇妙なお仕事

フランスの王室には奇妙な風習がありました。

中世のシャルル7世(ジャンヌ・ダルクを見捨てた男として有名)以降のフランス国王は、王妃の他に公式な愛人(寵妃)を持つことが許されていたのです。

フランス国王はカトリックの守護者です。

カトリックでは(相手が性的不能以外の理由での)離婚は厳禁、浮気も厳禁だったはずです。

しかし、国王だけは公式に浮気相手を定員一名で持つことが許されていたわけです。

ちなみに生涯一名ではなく、時期をずらせば何人でも公式寵妃は持つことができます。

ルイ15世肖像 /『Portrait of Louis XV of France (1710-1774)』

ポンパドゥール夫人は、フランス国王ルイ15世の何番目かの公式寵妃です。

そして、はじめての貴族以外の出身の公式寵妃となりました。

国王の愛人になって、宮廷の権力を握ることは彼女の少女時代からの夢でした。

ちなみに侯爵夫人(のちに公爵夫人に格上げ)という爵位の持ち主ですが、国王の公式寵妃になるための条件として貴族の女性でなくてはならないため、平民出身の彼女にも爵位が与えられたのです。

ヴェルサイユに君臨した「ロココの女王」

公式寵妃とはただの浮気相手ではありません。

王妃様は地味で真面目なのが取り柄。

一方、公式寵妃は華々しく着飾って、派手な言動で、世間のニュースとなることが期待されている存在なのです。

いわば炎上要員とでもいいましょうか。

こうして王室への不満をそらし、自らその的(まと)になるのが公式寵妃たちの大きな役割でした。

ルイ15世は非常に情熱的というか、はっきりいうとすけべな男性でしたので、夜の欲求が強い人でした。

王妃が「私はもうコレ以上の数の子どもを産むのはイヤ!」と、夫・ルイ15世を放り出したため、浮気は完全公認となりました。

ポンパドゥールの前任者の公式寵妃だったシャトールー公爵夫人などはまさにソレが原因で、消耗死したという噂さえあるくらいだったのです。

ポンパドゥール自身は実は不感症だったそうで、ある時点からは義務と演技さえもつらくなり、国王とのセックスを辞退します。

しかし国王たちに別の愛人を探してあてがうなど娼家のおかみのようなことまでしています。

その一方で、あらゆる芸術や文芸の庇護者として振る舞い、フランス初の百科全書などを作らせました。

宮廷での生活もより贅沢に、洗練されたものになりました。

セーヴル焼

I, Sailko [GFDL (http://www.gnu.org/copyleft/fdl.html), CC-BY-SA-3.0 (http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/) または CC BY 2.5 (https://creativecommons.org/licenses/by/2.5)]

国外からの輸入に頼っていた高級陶磁器を、フランス国内でも作らせ、宮廷で使用。いわゆるセーヴル焼です。

現代に続くセーヴル焼の伝統を作ったのは、ポンパドゥールの熱意あってのことでした。

また、高品質なセーヴル焼は、当時から輸出品として国外の富裕層の間で人気を博しました。

ポンパドゥール夫人は、名実ともにヴェルサイユに君臨する「ロココの女王」だったのです。

ポンパドゥールの最期

そんなポンパドゥールの最期の言葉は「死にそうだから、お化粧させて」……正確には「神様の前に出るのだから、頬紅を塗りたいの。ちょっと待って」でした。

まだ42歳の若さでしたが、死因は当時の宮廷人の言葉によると「両方の肺に水か膿がたまり、心臓は充血か肥大化のどちらかで、信じがたいほど残酷な苦痛」でした。

陸の上にいるのに、まるで溺れているような呼吸困難をつねに感じていたのです。

しかし、18世紀のヴェルサイユではエチケットとして、いかなるときも貴婦人たるもの、微笑みをうかべていなくてはなりません!

横になると完全に窒息してしまうので、危篤を宣告されてなおポンパドゥールは椅子に座り続け、微笑みを浮かべようとしていました。

そして死が迫った時、苦しみの言葉をはくどころか、「お化粧をする時間をちょうだい」と、いわばジョークをいって周囲をなごませようとしたのです。

並大抵の女の器では、国王の筆頭愛人など勤められないでしょうが・・・・・・女の人生の幸福とはなにかについて考えさせられてしまう気がします。

長い葬列を組んで彼女のお棺がヴェルサイユ宮殿から運び出される時、雨風のふきすさぶバルコニーに立ちすくんだルイ15世はポンパドゥールを見送りました。

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