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コラム エピローグ <偉人たちの最期> presented by 雅倶楽部 2018年11月5日掲載

平均寿命22.7歳?!遊女たちの終着地「投込寺」

遊郭で亡くなった遊女たちの遺体はどのように取り扱われたのか?
政府公認の「三大遊郭」と平均寿命22.7歳の遊女たちの死について迫ります。

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「エピローグ <偉人たちの最期>」番外編です。

江戸時代の女性のうち10人に1人か、それ以上の割合で(ヘタすれば半数ほどが)売春に携わっていたとされています。

たとえば現在ではカフェの店員に相当する「茶屋女(ちゃやおんな)」という職業がありました。

表向きは真面目な店でも、お店の常連から多額のチップを握らされれば、拒否しにくいというような側面も多々あったわけです。

しかしそれらはすべて、幕府の法では違法でした。

役人に捕まれば、吉原に連行され、何年も無銭労働させられるというペナルティをくらってしまったのです。


法外な借金の利子で吉原に縛り付けられた遊女たち

なぜその他の売春がダメで、吉原なら大丈夫だったかというと、江戸時代の日本では「三大遊郭」といって江戸の吉原、京都の島原、大坂の新町といった三ヶ所の色街だけが幕府の公認をえて営業されていたのです。

三大遊郭、それも高級店に所属する売れっ子遊女ともなれば「セクシー産業」のエリートであるだけでなく、時代の流行を左右するファッションリーダーとして注目される者もいました。

中規模の藩の家老の年収に相当する何百石以上ものお金を稼いでいたりする遊女も珍しくはありませんでした。
しかし、彼女たちの手元にはほとんどお金は残りません。

女性たちが吉原へ入るのは、親族や夫の作った借金のカタとして「売られたから」。

そして、その金に法外な高利子が課されているため、おのれの稼ぎだけで借金を返し、吉原の外に生きて出ることは不可能でした。

投込寺に放置された遊女の遺体

勤めの年季明けの前に遊郭で亡くなった遊女たちの遺体は真夜中にこっそり、それも逆さ吊りにされて吉原から運び出されていきます。

そして三ノ輪の浄閑寺、日本橋堤にあった西方寺など何箇所かあった通称「投込寺(なげこみでら)」の境内に持ち込まれ、小銭を添えて放置されるのが常だったのです。

身内に遺体を引き取って弔いたいという者がいれば話は別ですが、そういうケースはむしろ稀でした。

三ノ輪の浄閑寺の過去帳の記録によると、一ヶ月に吉原から運び込まれる遊女たちの遺体数は平均40人。

西方寺はそれより3割程度少ない28人程度だったそうです(葛岡敏『ドン底より』)。

ほかにも違法売春地帯を江戸では「岡場所」と呼びましたが、その岡場所の遊女たちの遺体も寺に運び込まれてきていたので、ほぼ毎朝、寺の関係者は遊女の遺体に対面していたことになりますね。

吉原はなんども火事で全焼するだけでなく、江戸時代の日本にも多発した地震災害の犠牲となりました。

たとえば安政二年の大地震では、多数の遊女が倒壊した建物の下敷きとなって圧死しました。浄閑寺に運び込まれた遊女の遺体数だけでも526名だったそうです。

殆どが無縁仏に…儚き遊女たちの最期

三ノ輪の浄閑寺に保管されている寛保三(1743)年から、安永八(1779)年の過去帳には、遊女たちの亡くなった年齢と思われる数字がところどころに書かれてあるのですが、その平均寿命は22.7歳でした(西山松之助『くるわ』)。

吉原では30歳前には勤めの年季があけるとされましたが、その前に、大半の遊女たちの寿命が尽きていたことがわかります。

まぁ、江戸時代の日本人女性の平均寿命は長くて20歳代後半程度でしたが、それでも遊女たちのほうが短命だといえるのです。

遊女に与えられた戒名を見ると、遊郭側がその遊女にどういう気持ちを抱いていたかがすぐに分かります。

たとえば遊女が世をはかなんで自殺、もしくは客の男性と心中して死んだ場合、吉原から逃亡した後に捕まって拷問を受けていた途中に死んだ場合など、店側にとって不利益な死を迎えた時、彼女たちの戒名は「売女」「遊女」で終わる名にされてしまいました。

これら遊女の遺体は投げ込み寺で無縁仏として扱われ、個々に墓などは作られません。

寺の僧から経文などは読んでもらえたでしょうが、いわゆるお葬式らしいお葬式があったはずもないのです。

歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹

年季とは・・

年季とは・・

吉原では20代前から遊女として客をとりはじめ、勤めの年季は約10年ほどでしたから、30歳前には勤めの年季があけます。10年ほど働ければ、吉原入りの原因となった借金は帳消しになるのですが、吉原で働くための豪華な衣装代や美容費などはすべて遊女の自腹です。
豪勢さで有名になった場合、年季が明けても遊女家業でこしらえた借金の返済で仕事を続ける場合などもよくありました。しかし考えればそれも幸せなケースのひとつかもしれません。
「苦海十年」などという言葉が残されているように、大半の遊女たちの寿命が年季明けの前に尽きていたことがわかりますから

興味深いエピソードがあります。

西方寺は明治になってから「日本橋堤」から「浅草区聖天町十二番地」に移転が決定し、吉原との縁は薄れたそうですが、この寺の跡地には一坪ほどの空き地がしばらく残されていました。

というのもこの空き地、かつて吉原の高級店・三浦屋の薄雲太夫という遊女が可愛がっていた三毛猫が亡くなった時に作られた塚が置かれていた場所で、その後も参詣者が多かったそうです。

猫の呪いを避けるために、空き地にされていたのです。

では薄雲太夫本人のお墓は……というと、今となっては仔細がよくわからないのですね。

遺骸を縁故者に引き取ってもらえたのかもしれませんが、他の遊女たちと同じように投込寺に遺体が放り込まれ、消えていったのかもしれません。

猫塚だったとされる「空き地」も、関東大震災後のドサクサに紛れてしまい、どこかわからなくなったとのことです。

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