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コラム エピローグ <偉人たちの最期> presented by 雅倶楽部 2019年3月31日掲載

なぜ「織田信長」の葬儀は3万人の警備が必要だったのか?<織田信長の死と葬儀【後編】>

本能寺の変から4ヶ月後、遺体無きまま信長の葬儀が執り行われることに。
主催者(主導者)として豊臣秀吉の威信がかかったこの葬儀…果たして結果は如何に?!

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前編『新説「本能寺の変」…原因は信長の衣装にあり?!<織田信長の死と葬儀【前編】>

信長の正式な葬儀が行われたのは、天正10年6月2日(1582年6月21日)の「本能寺の変」から約4ヶ月半を経た、同年10月15日のこと。

それまでにも信長の乳母のひとり(氏名不明)や、信長の妹・お市の方らが信長の死を悼み、私的な仏事として同年9月12日に「百日忌」を各地の寺でいとなんでいたことが知られています。

信長に特別に目をかけてもらっていた清玉という僧も、京都の阿弥陀寺で信長を供養していました。

清玉は、他の者たちが信長の遺体を「本能寺の変」の後に発見できなかったのは、自分が信長の遺体を荼毘に付して遺骨として持ち出したからという主張までしています。

通常一晩かかる火葬をスピーディーに終えすぎているため、信憑性はありませんが……。

しかし清玉の尽力により、秀吉による正式な葬儀の儀式以前にすでに作られていた阿弥陀寺の信長の墓には、「百日弔」にあたって山科言経(やましなことつね)ら知識人の公家たちもお参りしているのでした。

信長の葬儀にさきがけ、朝廷からは天皇・親王がたをはじめ、公家たちもこぞって信長に弔慰を示し、贈経もしています。

このように身分・階層を超え、信長に弔意を評する人々がたくさんいたのは、信長を慕う人々の層が、現代人のわれわれが考える以上に分厚かったことを表しているのですね。

豊臣秀吉、天下人への布石

これらの人々の頂点に立ったのが豊臣秀吉(当時、羽柴秀吉)でした。

彼の策略によって、信長が亡くなってからわずか4ヶ月半で織田家の勢力地図はいっきに新しいものとなっていました。

「本能寺の変」の時、備中高松城(現在の岡山市北区)で交戦中だった秀吉は、部隊を率いて京都まで猛スピードで戻ってきます。

そして「逆臣」明智光秀を討ち果たし、その戦績を背景に天正10年6月27日(1582年7月16日)、有名な「清須会議」を開きました。ここで秀吉は、信長亡き後の織田家内での主導者的な地位を得ています。

ちなみに「本能寺の変」のとき、信長の嫡男・信忠も京都に滞在中でしたが、本能寺で父親が襲われていると知ると加勢して戦死しています。

残された次男・信雄(のぶかつ)、三男・信孝が、父の後継者となるべく争っているのをいいことに、秀吉は「信長公の後継者は、嫡孫(信長の嫡男・織田信忠の息子)がよろしい」などと発言。

わずか3歳の三法師(と当時呼ばれていた子)を担ぎ上げてしまうのです。

この三法師の後見人となった秀吉は、信長の正式な葬儀を自らの采配で執り行うことを画策しはじめます。

織田家内の覇権を確立したのが自分であると世間にアピールするためでした。

リーダーが亡くなった時、その人の葬儀を、誰の裁量でどのように執り行うかで次代のリーダーは決定されるということです。

これは死者のためというより残された者のために絶対に必要だったのです。

大徳寺/高桐院

Wiiii [GFDL (http://www.gnu.org/copyleft/fdl.html) または CC BY-SA 3.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0)], ウィキメディア・コモンズより

秀吉が計画した信長公の葬儀の会場は京都の北部にある大徳寺で行われることになりました。

葬儀に先駆けて天正10年9月13日、秀吉によって多額の作善料(=お布施)だけでなく、寺の近辺の田畑の権利すら大徳寺に与えられ、朝廷にも働きかけ、信長の官位をアップグレードさせることに成功します。

こうして信長は死後に「太政大臣従一位」と、平清盛や足利義満にならぶ社会的なステイタスを獲得したのです。

逆にいうと、それだけの身分ある人の葬儀を正式に執り行う秀吉が自分の凄さを世間にアピールするための素材として信長が使われただけなのですがね……。

遺体なしの葬儀に警備3万人!

とうとう葬儀が執り行われる15日がやってきました。

信長の次男・三男が、儀式の妨害に訪れることも想定されていたため、葬列が通る沿道には織田家だけでなく、織田方の武将たちの抱える中から三万人もの警備の武士が置かれており、そこに常識はずれに豪華な葬列が現れて人々の目を驚かせました。


信長の遺体は「本能寺の変」の後も発見されていないままだったので、お棺の中には高価な香木・沈香をくり抜いて作られた仏像が入っていたようです。

信長の棺は豪華な「金紗金襴」の布でつつまれ、本物の金銀飾りのついた「輿」に載せられていました。

大徳寺から火葬の行われる蓮台野まで葬列が進む中、秀吉の弟である秀長が警護大将をつとめ、警護している三万人とはまた別、さらに三千人もの武士たちとともに葬儀に妨害が入らないかを見守っていたそうです。

池田輝政/鳥取県立美術館所蔵品

(wikimedia commonsより)

「輿」を担いだのは、信長の乳母の孫・池田輝政と、信長の実子(四男)で秀吉の養子になっていた秀勝でした(後に早逝)。

秀吉もお棺のそばを、信長が所持していた不動国行の太刀を掲げて歩くことで、自分が信長の後継者であるというアピールを余念なくしていたそうです。

これら三千人の武士集団のあとを、今度は京都内外の僧侶たちが宗派を超えて結集、付き従いました。

僧の数は「数知れない」ほどだったと、『秀吉事記』には見られるのです。

なお、葬儀からしばらくしたころ、大徳寺は秀吉から受け取った「作善料」から、信長の位牌所として総見院を建立するだけでなく、そこに祀るために信長の木像を作製に着手するのですが、この時、木像を作る仏師の人選をめぐり大徳寺と朝廷に深刻なトラブルが生じています。

マニアックなのでここではくわしくはお話しませんが、信長の葬儀は秀吉の権勢誇示目的をとおりこし、社会現象にすらなっていたことがおわかりになるかと思います。

まさに信長、「革命児」らしい葬儀でした。

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