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コラム エピローグ <偉人たちの最期> presented by 雅倶楽部 2019年2月5日掲載

食い違う証言…なぜ「スターリン」は見殺しにされたのか? <ソビエト連邦最高指導者の最期>

「一人の人間の死は悲劇だが、数百万の人間の死は統計上の数字でしかない」。これは、自国ロシアの人命を一説に2000万人以上も奪った、ヨシフ・スターリンの「名言」です。本稿では、不信の塊が裏目に出たスターリンの最期に迫ります。

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「一人の人間の死は悲劇だが、数百万の人間の死は統計上の数字でしかない」


これは、自国ロシアの人命を一説に2000万人以上も奪った、ヨシフ・スターリンのものだとされる「名言」です。

スターリンの死生観は、この言葉に尽きるでしょうね。

歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹

ヨシフ・スターリンのものだとされる「名言」…

かなり有名だが、実際は出所不明の迷言。

ナチスの軍人、アドルフ・アイヒマンの言葉とも、ドイツ人作家で長編戦争小説『西部戦線異状なし』の作者、エーリヒ・マリア・レマルクの言葉ともいわれるが、それっぽい言い回しがあるだけで、確実に出典はこれだという確証はない。

ただし、この言葉ほどスターリンの恐怖政治を象徴する言葉はない。

国民はとにかく耐えろ!

ロシア帝政時代末期の1879年、グルジア地方の靴職人の家庭に生まれたスターリンはまじめな学生でした。

もともと記憶力に優れ、通っていた神学校の成績はよかったのですが、図書館でマルクスの著作を読みふけり、革命運動にかぶれ始めてからは勉強しなくなりました。

1917年、ロシア革命で帝政が倒れた後も政治活動に没頭、1920年代後半には、ソ連の指導者として頭角をあらわします。

しかしスターリンの政策はめちゃくちゃでした。

「国家の福祉増進という高潔な目的のために、日夜努力せねばならない。国内の工業化を実現するためには、ある種の犠牲も覚悟しなくてはいけないし、国民は耐久生活を送らねばならない」

と後に言っていますが、犠牲ばかりの耐久生活を国中が強いられたのです。

1929年末には、ロシア全土の農民たちは「コルホーズ」と呼ばれた集団農場にまとめて住まわせられ、収穫物は国がすべて徴収することになりました。

一切の私有は厳禁です。

反対者は容赦なく処罰され、2年間の間に「問題をおこした」39万人が強制収容所送りとなり、そのうち2万1000人は銃殺刑となりました。

「囚人を矯正し、魂を鍛え直す労働」を課される強制収容所のくらしは、コルホーズよりも格段に悪く、1日16時間、スターリンが欲しがっていた金鉱の採掘や土木作業に従事させられ、死ぬまで働かされるのでした。

囚人たちがやってくるのはだいたい夏ですが、冬をこせず、毎年数十万人が死にました。

軍部粛清が常態化…

そうこうしているうちに、ソビエト連邦の外界は第二次世界大戦に巻き込まれます。

1941年、あのヒトラー率いるナチス・ドイツがソ連不可侵条約を無視して、攻め込んできます。

結果的にはヒトラーも、マイナス60℃の寒さに襲われるソ連(ロシア)の「冬将軍」には勝てなかったわけですが、実はソ連軍側はドイツの約5倍の2000万人もの死者を出していました。

というのも、ソ連国内ではスターリンによる軍部の「粛清」が常態化しており、リーダー格の将校の八割がすでにあの世に行ったあとだったのですね。

まともに指揮できる者がいないので、兵士はどんどん死んでいきます。

戦場でも、ナチス・ドイツの兵士にやられるより、味方であるはずのソ連軍兵士に殺される兵士が続出しました。

少しでも臆病なところをみせた兵士はその場で処刑です。

スターリングラードの攻防戦/勝利の旗

Bundesarchiv, Bild 183-W0506-316 / Georgii Zelma [1] / CC-BY-SA 3.0 [CC BY-SA 3.0 de (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/de/deed.en)]

ナチス・ドイツにソ連が打ち勝った「スターリングラードの攻防戦」でも、自軍に処刑されたソ連兵士の数はなんと1万3500人。

ちなみに兵士がドイツの捕虜になると、スターリンは激怒し、捕虜になった兵士の家族を皆殺しにしましたので、戦いの外でも人命は減っていったのです。

それなのにソ連国内には「スターリンは素晴らしい指導者である」といった内容を謳うポスターや映画が公開され、「聖者スターリン」などとすら国民は信じるようになりました。

メディアを通じた洗脳が日常的に行われ続けたのです。

しかし、ここまで「敵」を殺し尽くし、国民を洗脳しきってもなお、スターリンは自分が暗殺されるという妄想に取り憑かれていました。

食べ物の毒見はもちろん、医者さえ信用せず、薬もなるべく飲まないのです。

食い違うフルシチョフの証言

1953年3月5日、元気だったスターリンにも死の順番が回ってきました。

モスクワ郊外にあったダーチャという地域の別荘で脳卒中で倒れたものの、発見が遅れたので手の施しようもなかったというのです。

また、彼の死をめぐる有力者の証言は見事なまでに食い違っており、筆者には「脳卒中に倒れたスターリンは見殺しにされた」というしかないのですね。

Soviet Premier Nikita Khrushchev in Vienna.

スターリンの後をついで、ロシアの実力者となったフルシチョフの証言をまとめると

フルシチョフ証言(1)

「スターリンの別荘で、2月28日(土)の朝方まで続いたパーティーの後、ご機嫌になったスターリンは寝室にひきあげた。われわれは帰った」

フルシチョフ証言(2)

「28日の土曜日丸一日、そして翌日にあたる3月1日の日曜日も、スターリンからの呼び出しはなかった。土日もスターリンから私用で呼びつけられないことは、珍しいことだった」

フルシチョフ証言(3)

「3月1日(日)の夜遅くなって、寝ようとしていたら同僚からスターリンが倒れたという連絡があり、急いで彼の別荘にむかったら、スターリンが死にかけていた」

というのです。

しかし、ロシアで最初にスターリンに関する本格評伝『勝利と悲劇』を書いた歴史家ヴォルコゴーノフによると、フルシチョフの発言は、時間軸すらおかしなものになっていることがわかります。

ヴォルコゴーノフによる第三者証言のまとめ(1)

「スターリンは、別荘で2月28日(土)の昼間から翌朝四時まで、長時間ぶっつづけの厳粛な会議を行っていた。不機嫌なスターリンはフルシチョフをはじめ、重役らに当たり散らかした」

ヴォルコゴーノフによる第三者証言のまとめ(2)

「翌日、3月1日の正午になってもスターリンは起きてこなかった。別荘の召使いたちは異変に気づいた。しかし召使いからスターリンに働きかけることは禁止されていたので、様子をうかがっていると、夜6時半ごろ、スターリンのいる書斎に明かりがついた(が後にそれは消えた)」

ヴォルコゴーノフによる第三者証言のまとめ(3)

「しかしその後も何の連絡もスターリンからはない。夜11時頃、意を決して部屋の扉を開けて進んだところ、食堂でスターリンが倒れているのを発見した。スターリンは起き上がれず、左手を上げて助けを求めるような仕草をした」

・・・・・何者かが夜6時半に、別荘の中で、スターリン専用の私用スペースに侵入、電気をつけた。

ちなみに召使いたちにとって、スターリン専用のスペースは、彼からの許可なく、自由に入ることができないエリアで、そこに立ち入るには相当な心理的抵抗感があった。

それに対し、この書斎に電気をつけた人物(たち?)は、とくにお構いなく該当エリアに入り込んでいるところから、おそらくは高官の誰か……それも、スターリンが彼の死の前日にもおこなった会議にも参加していた誰かではないかと推察され
る。


彼は、スターリンが倒れている食堂にほど近い書斎の電気を付けたので、のスターリンが倒れているのに気づいたはずだが、恐らくは殺意をもって、彼を放置した。つまり見殺しにした。

それを夜11時、スターリンの居住エリアに震えながら入った召使いの一人が「発見した」……ということなのでしょう。

脳卒中の発作から10~12時間以上も経過してスターリンは医師にかかったため、手遅れでした。

ペレストロイカ時代ですら、絶対的なタブーとなっていたスターリンの死の真相

何人もの無実の人々の命を奪いつづけ、ロシア中をひれ伏させるがごとき絶大な権力を誇り、「赤い皇帝」とすら呼ばれたスターリンの最後は悲惨でした。見殺しにされたのですから。

スターリンの死にまつわる真実は、その後、権力を握ったフルシチョフの証言どおりということになりました。

それ以外の真実は闇に葬られたのです。

ちなみにヴォルコゴーノフが例のスターリンに関する評伝『勝利と悲劇』内で、スターリンの死について述べた部分の証言は、ボリショイ劇場の支配人だった「ルイビン」という人物の談話による、とされています。

現代日本でルイビンについてインターネットで検索しても、何もヒットしません。そもそも「ボリショイ劇場の支配人がなぜ?」と思うかも知れませんが、それには絶対的なウラがあるのでしょう。

ヴォルコゴーノフが『勝利と悲劇』を書いた、ペレストロイカ時代においても、スターリンの死について、ボリショイ劇場のルイビンという人物以外、実名で真実を語りうる人がいなかった。

つまりスターリンの死はそれほどのタブーだったということが推察されるのです。

さて、その後のスターリンは目を開けたりすることはありましたが、明確な意識は戻らぬまま、3月5日に亡くなっています。

苦笑してしまうのは、スターリンが重要視し、ナンバーツーとしていたベリヤというおべっか使いの男の態度です。

スターリンの意識がないときは「こいつにオレはひどい目に遭わせられたのだ!」と罵詈雑言を浴びせかけるベリヤでしたが、スターリンが目を開くと、そっと彼の手を握り、やさしい眼差しで彼を見つめたという記録が、スターリンの娘によって残されています(ベリヤも後に処刑されましたが)。

スターリンの死をめぐる群像劇は、もはや三谷幸喜ばりのブラックコメディなのです。

エンバーミング(防腐処置)された遺体の維持費は…

CaritasUbi [CC BY-SA 3.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0)], ウィキメディア・コモンズより

さて、1953年3月6日、スターリンの遺体はモスクワの労働組合会館内のコラムのホールに展示され、三日三晩もの間、人々が弔問に訪れました。

ソビエトは無宗教国家ですので、「聖者スターリン」に対してでも宗教的な儀礼としてのお葬式は行いません。

スターリンの遺体には完璧なエンバーミング(防腐処置)が施され、3月9日、モスクワの「赤の広場」にあるレーニン廟内に安置されました。

しかし、スターリンの所業に国内での批判が強まります。

1961年、スターリンの遺体だけはレーニン廟から取り出され、クリムリンの壁と廟の間の土中に埋められることになりました。

スターリンの遺体は土中で往年のカタチを保っているという説もあります。
しかし、おそらく朽ち果ててしまったのではないでしょうか。スターリンの遺体はその後のケアをうけていませんからね。

ちなみに現在でも死んだ直後の弾力性をたもっているというレーニンの遺体のお手入れには、一年あたり約2000万円の維持経費と手間暇がかかっているのです。

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