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コラム エピローグ <偉人たちの最期> presented by 雅倶楽部 2019年8月28日掲載

浮気疑惑を晴らすために…戦国時代最強の武将「武田信玄」の苦難 <戦国武将「辞世の句」特集>

織田信長すら恐怖していた戦国時代最強の武将「武田信玄」。生涯不犯(ふぼん)を貫いた出家者「上杉謙信」。『辞世の句』をもとに諸説ある彼らの生涯に迫ります。

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武田信玄

最期の言葉「自分のダメだった部分は隠そうとは思わない。それはそれでよいのだから(意訳)

「戦国時代最強の武将」武田信玄。

織田信長すら恐れさせていましたし、徳川家康を追い詰めた時には、彼を恐怖のドンゾコにたたきおとし、脱糞させてしまったエピソードでも知られます。

おまけに彼は美男子でした。

近年では恋人の男性に投げかけられた「浮気疑惑」を晴らそうと、苦しい言い訳をする書状が「信玄のラブレター」として有名になったり……なにかと話題に事欠かない「お館様(おやかたさま)」武田信玄公であります。

しかし、ソリの合わない父親を他国に追放し、力づくで武田家の当主となるなど、その生涯は若き日から苦難つづきでした。

「信玄」は本名ではなく、出家した時に与えられる法名です(本名は武田晴信)。

苦労人の彼には、なかなか信仰深いところがありました。

川中島の戦い

しかし出家した身の上なのに、なおも欲のままに領土拡張をねらって戦を繰り返し、軍事侵攻も辞さないナマグサ坊主……などと、上杉謙信には嫌われ抜かれていたわけです。

その結果が、度重なる「川中島の合戦」ということですね。

そんな武田信玄が、遺言として「自分の人生のダメな部分を隠そうとは思わない」などと言っているのは面白いですね。

出典ですが、江戸時代にまとめられた軍学書『甲陽軍鑑』に、武田信玄の遺言として載せられている韻文です。 

「大底還他肌骨好大
不塗紅粉自風流紅」

この第二文を筆者が言葉を補い、解釈したものが「自分のダメだった部分は隠そうとは思わない(以下、略)」です。

ちなみに第一文を意訳すると、

「自分の人生にはいろいろあったけど、大抵のことの解釈は、心根の良い人々たちに任せるよ」

……となりますかね。なかなか難解な文章です。

身分、ステイタスともにきわめて高い信玄公。

彼の最後の言葉は、それこそ「肌骨(きこつ)好(よ)き」人……つまり、心根の良い人でなくては解釈すらおぼつかないのでした。

上杉謙信

極楽も 地獄もさきは 有明の 月の心に かかる雲なし

「私が死ねば極楽にいけるのか、地獄に落ちるのか。それは両方ともありうることだろう。それでも死を前にした私の心は、有明の月のように澄み渡っている」……と意訳できるでしょうか。

当時の身分の高い人の間で、辞世は死を覚悟したときに作っておくものですから、上杉謙信も武田信玄とおなじくらいに「達観」していたようです。

若き日の上杉謙信は美女に見紛うほどに美男だったとも言われますが、実際のところ、なんの確証もありません。

京都に上洛し、朝廷の人々とも会いましたが、誰ひとりとして日記に上杉謙信の容貌の美しさについては書き残していませんからね。

ただし上杉謙信の肖像画として検索するとすぐに出てくる、例のムッチリしたヒゲボウズな絵面も、江戸時代に入ってから想像で描かれたものにすぎません。

上杉謙信本人は肖像画を描かれることをたいへんに嫌い、自分のいわば「アバター」として、愛用の酒器を描かせたくらいでした。

酒好きをとおりこし、アル中気味だったそうです。

死因もトイレで倒れているところを発見されたが、時既に遅し……だったようですので。 

上杉謙信は生涯不犯(ふぼん)……つまり女性と結婚しないという誓いを立てており、最期までそれを守り通しました。

上杉景勝像

跡継ぎの上杉景勝は親族からもらった養子です。

普通の戦国武将なら自分の血筋を継がせることに必死だったはず。

それゆえ「男性のほうが好きだったので結婚を拒んだ」「上杉謙信は女性だったので、女性とは結婚できなかった」とかいろいろとセクハラめいたことを何百年もの間、いわれつづけました。

歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹

上杉謙信女性説

「毎月10日前後に原因不明の腹痛を訴え、小屋に籠もっていた」などといわれています。ただし、これはただの俗説であろうか、と。

上杉謙信が武田信玄と激突した、合計5回ほどある「川中島の戦い」の中でも最大の激戦だった第四次合戦。

この開始時が永禄4年9月9日(1561年10月17日)で、この時、上杉謙信(正確には当時はまだ上杉政虎と名乗っていたが)は大活躍を見せていますからね。

上杉謙信女性説は、歴史作家の八切止夫という人が唱え、1970年代に一大ブームになったわけですが、かってに生理休暇説のほかにも「ピンクや赤い派手な服を好んでいた」とか現代の感覚ではセクハラまがいの理由で、上杉謙信は女性ということになっております。

くわしくは拙著『乙女の日本史』の戦国時代のページをどうぞ。編集者から強いオファーをうけて、ちくいち検証しております。

本人が理由を述べていないので推測になりますが、上杉謙信は出家者です。

当時の出家者は人を殺したり、人のものを奪ったりすることは禁じられていました。

しかし、時は戦国の世。凶作など天候異変、流行病で人口減少が起これば、武将=領主は戦を他国にしかけ、食料や物資、ときには人手すら奪ってくるしか生き残る方法がありませんでした。

ようするに、「義」をかかげた上杉軍でありながら「人盗り」(=捕囚の拉致監禁)もするわけですね。

そんな嘆かわしい乱世に、一国の頭領として生きねばならない上杉謙信には、守れない仏教上の「誓い」は多すぎたのでした。

だからこそ「独身でいる」という「誓い」だけはせめて守ろうとしたのでは、とも考えられるのです。 

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