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コラム エピローグ <偉人たちの最期> presented by 雅倶楽部 2019年1月4日掲載

悪魔的頭脳、世紀の人たらし…「野口英世」はなぜ伝染病でも火葬されなかったのか?

ひと頃は立身出世の代名詞でもあった野口英世。
近年では、彼の発見の多くが否定され医学書にその名前を見る機会は減りつつあります。
黄熱病でこの世を去った彼の人生…生から死までをご紹介いたします。

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戦前から現在にいたるまで、日本近代の「偉人」として人気の高かった野口英世。

1876(明治9)年、福島県猪苗代町の貧しい農家に生まれた彼は1歳のとき、囲炉裏に落ちて左手を大やけどしてしまいます。

やけどの後遺症は残りましたし、それが原因でいじめられもしました。

しかしコンプレックスをバネに、野口は猛勉強を続け、21歳の若さで医師免許を取得。24歳でアメリカに渡って医学研究を続けることになったのでした。

その後はロックフェラー財団に援助され、34歳で当時はまだ不治の病だった梅毒スペロヘータの純粋培養に成功。

これは梅毒治療の根幹となる大発見でした。

37,38歳と二回、ノーベル賞の候補となった後は黄熱病にうちこみますが、その研究中、病に感染して死亡……などと要点だけ述べれば、完璧な偉人的経歴の持ち主なのですが、実はここ数十年で野口英世の世間的評価は変わりつつあります。

発見の多くが否定…変わる世間的評価

かつてはノーベル医学賞の候補に数回もあげられるなど、医学研究者としての野口の評価はきわめて高かったのですが、現在は彼の発見の多くが否定されている状態です。

医学の教科書にも野口の名前を見る機会は減ってしまっています。

また、1970年代後半には、ポプラ社の子供向けの偉人マンガの売上ナンバーワンは野口英世でしたが、現在は10位圏外に墜落してしまっているのです(ちなみに現在の一位はヘレンケラー)。

貧しさの中から努力を通じて大成功を掴むという古風な立身出世ストーリーではもはや共感を呼ばないのでしょうか。

そんな野口英世の真実と、彼の死の前後について今回は見ていきたいと思います。

「悪魔的」頭脳で放蕩三昧の裏の顔

まず、野口の「英世」という名は、自分でつけたビジネスネームでした。

本名は「清作」といいます。

坪内逍遥の『当世書生気質(とうせいしょせいかたぎ)』という小説に出てくる、アウトローな主人公の名前が「野々口精作」だったため、彼とそっくりな名前の自分の人生が大変なことになることを恐れ、英世と名乗った……というような説まであるのでした。

野口には猛勉強によるストレスを浪費、放蕩、飲酒などで解消するという、ろくでもないクセがありました。

さらにろくでもないのは、貧しい家に生まれた野口が贅沢三昧するときに使うのはもっぱら他人のお金で、他人に財布を開かせるためなら、その明晰な頭脳を使ってなんでもするという悪魔のようなところまで彼にはありました。

「改名」の効果、ゼロなのです。

東京歯科大学の創立者の一人「血脇守之助」

たとえば東京にやってきた野口がたかった一人に、血脇守之助という歯科医師がいました。

「東京に来たら、ウチに立ち寄りなさい」というおあいそを言ってしまったがゆえに、野口に家に転がり込まれ、金を引き出し続けられ、彼の学費はおろか、遊興費まで文句をいわず支払い続けたそうです。

それもこれも野口の天才に惚れ込んでいたからだとか。

のちに野口はアメリカ留学を考えるようになりました。

しかし血脇の経済力だけではおぼつかないため、野口は別の「ある富豪男性」をたらしこむことに成功します。

「帰国した後、あなたの姪と結婚してあげるから」という約束で300円(当時の300万円ほど)を得た野口ですが、自分で自分の送別会を横浜の一流料亭で企画、そこで一晩にして300円を使い切ってしまいます。

ここで血脇が例によって登場、野口に金を用意して手渡し、彼はアメリカに旅立つことができました。

アメリカでは全米有数の大金持ちであるロックフェラー家の財団の援助を得ることに成功します。

その後、やはりというか、野口は留学費用を出してくれた大富豪との約束……つまり彼の姪との結婚の約束を守らず、結局、その富豪の姪とは婚約破棄します。

彼女は野口を信じて待っていたのに裏切られ、婚期を大幅に逃すという恐ろしい結末が待ち受けていました。

野口が得た300円は、当時、結婚する時に、女性の実家側が男性に支払う習慣のあった「持参金」でした。

怒り狂う富豪に、300円を返金したのが例の歯科医・血脇だったのです……。

免疫ができていたはずの黄熱病で帰らぬ人に

Anopheles stephensi
Jim Gathany [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

周囲の苦悩をヨソにアメリカでハードな研究生活をつづける野口ですが、今度はなんと全米有数規模の大富豪ジョン・ディヴィソン・ロックフェラー・ジュニアを「たらしこみ」、大金を援助されていました。

野口が晩年、情熱をかけて研究に打ち込んでいたのがアフリカ各地で発生していた黄熱病の研究でした。

1928(昭和3)年1月はじめ、野口は体調を崩し、軽い黄熱病になったと診断されました。

黄熱病は現在もアフリカや中南米で発生している風土病で、蚊がウィルスを媒介することで知られています。

発症前にワクチンを打てばかかりませんが、発症後には打つべき手はなく、高熱や身体各部位からの出血・下血などが起きて衰弱、重症の場合は死んでしまうこともある病です。

野口は少し静養したのち、健康を取り戻すことができました。

しかし……同年5月はじめ、野口は深刻な体調不良を訴えて再度、倒れます。

YellowFeverVirus
Erskine Palmer, Ph.D. [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

ガーナの首都・アクラの病院に搬送されますが、そこで「黄熱病ではないか」という診断が再度くだされました。

黄熱病には一度なれば、免疫がつくため、生涯安全なはずでした。

それなのに……といぶかる同僚の医師に「大丈夫か?」と問われた野口は「(黄熱病の免疫はできていたはずなのに)なにがなんだかわからない」と答え、これが彼の最後の言葉となりました。享年52歳。

伝染病で亡くなった患者は原則として火葬にするのがこの頃のならわしでしたが、彼の遺体は金属製で特注の棺に入れられ、密閉された状態でアメリカに戻されます。

野口に特別な情熱を傾けていた、ロックフェラー・ジュニアの強い意思でした。

ロックフェラー・ジュニアは、ロックフェラー家など富豪や一流の文化人たちが眠るニューヨークのウッドローン墓地に、野口の墓所まで買い入れてくれていました。

野口の故郷を代表する名山・磐梯山を模した個性的な形の墓石がたてられ、国際結婚したメリー夫人と共に野口は永遠の眠りについています。

なお、野口家の菩提寺である猪苗代湖に浮かぶ翁島にある長照寺にも、野口夫妻の墓は作られています。

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