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コラム エピローグ <偉人たちの最期> presented by 雅倶楽部 2018年10月24日掲載

生活苦は自業自得!サボり魔、散財癖…『はたらけど はたらけど…』の石川啄木の真実

「はたらけどはたらけど、わが生活楽にならず」で有名な石川啄木。実は朝日新聞の社員で、単なるサボり魔&散財癖が生活苦の原因だということはあまり知られていません。本稿では、お寺の息子でもあった啄木の最期をご案内致します。

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「はたらけど はたらけど猶(なほ)わが生活楽にならざり ぢっと手を見る」

こんな歌を残しているせいで、「ワーキングプアの元祖」などといわれる明治の歌人・石川啄木。

困窮の中、体調を崩し、数え年で27歳の早すぎる死に様はたしかに悲惨です。明治45年4月13日のことでした。

彼の死の約1ヶ月前の3月7日、肺結核で母親が亡くなっています。

そのショックが大きかったとも言いますが、啄木の死因も肺結核でした。

おそらく母親から伝染したのでしょう。

医者に診てもらう金が手元になかったので、病院にいくのを遅らせているうちに持病の慢性腹膜炎を啄木はこじらせてしまいました。

急遽手術したのですが、栄養が足りていない身体の回復が遅れに遅れているうち、肺結核の症状まで出てきてしまったのです。

働きたくないあまり「病気になりたい」と願った啄木

しかし、「ああ。かわいそうに……」などと思ってはなりません。

この時、石川啄木は朝日新聞社の社員なんですね。エリートなのでした。

記者ではなく校正係で、さほど給料は高いものではなかったにせよ、ふつうに生きていくには十分だったはず。

なぜ、医者にかかる金も啄木は持っていないのでしょう。

「はたらけど、はたらけど」どころか、ズル休みばかりして啄木が働いていないからです。

それでも上司が優しいのでクビにもならないことをいいことに、給料の前借りばかりして、その給料で吉原に遊びに行ったりし、彼は散財しまくっていたのですね。

そもそも会社に行きたくないがあまり、

「神よ、わたしの願いは これだけだ、どうか、からだを どこか 少しこわしてくれ(略)病気さしてくれ!」

なーんて情けないことを、『ローマ字日記』に彼は記しています。
明治42(1909)年4月10日のことでした。

ちなみにこれ、啄木が北海道での生活に見切りをつけ、東京に出てきて、朝日新聞に入社して約1ヶ月後のこと。

同年6月には北海道に残してきた老母や妻子といった家族一同が、呼んでもないのに、「もうこんな寒いトコでの貧乏暮らしはまっぴらだ!」式に東京へ押しかけてきてしまったため、啄木の生活はさらに貧しくなります

家族がやってこようと、浪費を止めることができないのですね。

ダメ人間のプロ…遊ぶ金は遊女から調達

ちなみに東京にくる直前、北海道・釧路の新聞社に(例によってやる気ゼロで)勤めながら、啄木は現地の遊郭の遊女と恋仲に陥りました。啄木には妻子アリ、です。

その遊女と会いたくても払う金が工面できなくなると、遊女が遊ぶ金を恵んでくれていました。

遊女からの啄木への送金は、東京に啄木が出て行ってからも続いていたそうです。

……その金すら、吉原に費やしてしまうのですから、もう何もいえない。
「ダメ人間のプロ」が石川啄木です。
現実を自分に都合よく解釈できるダメ人間だから、感傷的な歌なども詠めるわけですが。

働きたくないから、ちょっと病気させてくれ……こんなロクでもない怠け者の願いを、残酷な神様はバッチリ聞き届けてくださったのでしょう。

東京にきてから約4年後の春、石川啄木の命は燃え尽きてしまったのでした。

しかし……啄木、遊女だけでなく周囲の男性たちからも借金しまくり、それを踏み倒しまくっていたというのに、なぜか愛されているんですねぇ。

臨終の場には、妊娠中の夫人と六歳の長女、友人で歌人仲間の若山牧水、そして生活力のない啄木との東京生活に耐えかね、一人で知り合いのところに逃げていっていたが、息子の危篤を知って戻ってきた父・一禎などがいました。

この子にして父あり?!父親は上納金未納で僧籍剥奪

啄木の父・一禎も、なかなかの経歴の持ち主です。

啄木の本当の故郷である岩手県・渋民村で寺の住職をしていたのですが、寺組織への上納金を支払わなかったので、僧籍剥奪されています。

それも啄木の借金返済のためだったともいいますが……父子ともに困った人たちでした。

なお啄木の親友といえば、言語学者として大成した金田一京助が有名ですが、早朝から彼が見舞に来てくれた時には、死が近い感じではなかったので、金田一は大学に出勤してしまったのでした。

結局、最後まで啄木は金田一をある意味、あざむいたということですね。
お通夜も、若山牧水と家族の四人だけだったそうです。

しかし4月15日、浅草の等光寺でのお葬式には北原白秋、夏目漱石、佐佐木信綱といった錚々たる文学関係者、そして朝日新聞社の人々らが合計45名ほども集いました。

その日暮らしすらまともにできていない経済レベルの石川啄木が、浅草の等光寺での葬儀を行えた理由は、歌人仲間の土岐善麿(ときぜんまろ)が等光寺の息子だったからです。

前述のとおり、石川啄木も寺の息子で、父・一禎は僧侶だったのですが、金絡みの問題で僧籍剥奪されているため、息子の葬儀に何もタッチできないのは情けなかったでしょうね。

それにしても葬式になって関係者が一気に増えたあたりが、シビアな事情を反映しているように思われます。

通夜にいって泣いている親族に混じって座っていても居心地が悪くないほどの親しさはないが(借金で仲がこじれている人もいたでしょう)、最後だから葬式くらいは行ってやろうという感じでしょうか。

それでも会葬者たちは棺の中の啄木の顔を診ると、みんな号泣してしまったようです。

彼の悪事をさんざん知り抜いているのに、最後はなぜか泣かせてしまうあたり、石川啄木は人心掌握とか、他人をコントロールする方法の本でも書いていたら儲かったかもしれません。

そんな「人たらし」啄木も町屋の火葬場まで担がれていって、灰となりました。

生身の啄木が消えてなくなり、彼がもう悪さを重ねなくなった後には、センチメンタルな歌だけが残り、悲劇の天才歌人・石川啄木のイメージは堅固になったのでした。

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