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コラム エピローグ <偉人たちの最期> presented by 雅倶楽部 2019年9月15日掲載

生涯で3回も改宗…人気取りのためなら自らも異端になったフランス国王「アンリ4世」 <権力者たちの最期の言葉>

生涯に3回も改宗したフランス国王「アンリ4世」。自称芸術家で本業は皇帝の「ネロ」。名を馳せた権力者たちの死の発端を辿りつつ、彼らの最期の言葉をご紹介いたします。

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ネロ

shakko [CC BY-SA 3.0], ウィキメディア・コモンズ経由で

ネロ
(ローマ皇帝・自称芸術家、37年 - 68年 享年31歳)
死因
自害
最期の言葉「先に死んで見せてよ」

「暴君」として有名なローマ帝国皇帝・ネロ。

しかし即位してしばらくの間は、よい政治を行い、「今度の皇帝は良い人だ」などと民衆の評価は高かったのはご存知でしょうか。

しかし、母やお妃、そして彼の政治を助けてくれていたセネカなどの賢臣を次々と殺していき、最終的には64年のローマ市大火の罪を、無実のキリスト教徒たちになすりつけるにいたって、ついに反乱が勃発します。

最後までネロに付き従ったのはたった3人だけでした。

生きて当局に逮捕されたら、それは残虐な処刑をされるだけだと説得され、ようやく自害に同意します。

しかし皇帝らしい「良い死に方」がわからないから、「先に死んで見せて」などと解放奴隷の部下たちに頼むなど、暴君の最後としては情けない様子を見せました。

ネロは自分のことを天才詩人で音楽家というように考えていたので、「私の死でこの世に惜しい芸術家が失われる」などと嘆いてみせたりもしています。

そんなネロが自害できたのは、彼の居場所をつきとめた役人の馬のひづめの音が聞こえた時でした。

アンリ4世

アンリ4世
(フランス国王・ブルボン朝の創始者、1553年 - 1610年 享年57歳)
死因
刺殺
最期の言葉「なんでもない」

「良王アンリ」としてフランス本国では、いまだに人気の高い王様、アンリ四世。

あの「ブルボン王朝」を開いた人、といえばなんとなくわかるでしょうか?

世界史の教科書的にいうと、1598年に彼が発布した信仰の自由をみとめる「ナントの勅令」によって、フランスにおけるカトリックとプロテスタントの内乱は集結したのです。

40年も、「同じ」フランス人、「同じ」キリスト教徒同士が殺し合いをしていたのですから、恐ろしいものです。

ところが・・・・・・彼はカトリック教徒だったのに(正確には改宗してカトリックになったのに)、狂信的なカトリック教徒に刺殺され、1610年に亡くなっています。

この時、刺された王が周囲を落ち着かせようとつぶやいたのが「(こんなキズなど)なんでもない」でしたが、その直後に彼は事切れてしまいました。

キリスト教世界では「王殺し」は最大の犯罪です。

ですから、殺人犯は、恐ろしい拷問のような処刑をうけて死にました。

ちなみにアンリ4世自身は、プロテスタントからカトリック、カトリックからまたプロテスタントというように、生涯で3回も自分の都合に合わせた改宗をしているのです。

改宗の理由は、その時々でコビを売りたい相手と同じ宗派になってしまうためです。

現代日本人の感覚では、カトリックとプロテスタントは「同じ」キリスト教の一宗派にすぎないかもしれません。その点で、改宗もいとわないアンリ4世は現代的だ考える人もいるでしょう。

しかし、当時のキリスト教国内では「同じ」キリスト教どころか、カトリックとプロテスタントがおたがいを異端視していました。

異端の信仰はキリスト教徒最大の罪の一つですらあったのです。

自分が信じる宗派のために生命すらかけてしまう人々もいる中で、改宗しまくるアンリ4世の態度は「都合が良すぎる」と軽蔑されたのかもしれません。それにしても殺されてしまうとは……。

ちなみにフランス革命の嵐が吹き荒れた1793年にはアンリ4世の棺まで暴徒に襲われ、遺体はバラバラにされてしまいました。

頭部は行方不明でしたが2010年、ついに「本物」の頭が発見されたとか、「いやソレは偽物だ」というようにフランス本国では今も注目が集まっているようです。

エリザベス1世

エリザベス1世
(イギリス女王、1533年 - 1603年 享年70歳)
死因
肺炎
最期の言葉「私の得た財産など、つかの間のものだった」

肺炎による高熱にうなされ、呼吸困難、危篤状態のエリザベス1世が、それでもなかなかベッドに横たわろうとしなかったのは、最後まで「死」を拒もうとしたからだったようです。

眠ってしまえば、もう自分の目は開かなくなることが恐ろしかったのでしょう。

最終的にベッドに入らざるをえず、すぐに昏睡状態におちいり、ウワゴトを繰り返したエリザベス1世の最後の言葉には、さまざまなヴァリエーションがあります。

その一つとして知られる「私の得た財産など、つかの間のものだった」は、君主としての栄光の日々も思えば、はかないものだったという嘆きでしょう。

ただし「メアリー・スチュワート」とも彼女はつぶやいたとされ、このメアリー・スチュワートとは彼女の血縁にあたる(元)スコットランド女王でした。

メアリーはエリザベスからイギリス女王の地位を奪おうと画策しつづけ、結果的にエリザベスはメアリーの首をはねる処刑書にサインせざるをえませんでした。

しかしキリスト世界においては前述のとおり、「王殺し」は最悪の罪です。王として即位するには神の意思がなくてはならないとエリザベスは考えていました。

しかし、自分の地位を狙ったメアリーをエリザベスは殺さざるを得なかったのです。

エリザベスは生涯未婚で、子どももいない「処女王」でした。

結局、絶大なる権力とか財産を得ても、それを手元に置いておけるのはわずかな間のことだけ、誰かにそれを根こそぎ奪われる時がきた・・・・・・ということでしょうか。

「おごれる者も久しからず」という我が国の古い言葉が思い出されますね。

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