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コラム エピローグ <偉人たちの最期> presented by 雅倶楽部 2019年6月29日掲載

夏目(漱石)家との玉の輿婚を狙ったのはあの女流作家<日本の文豪たちの最期の言葉>

芥川龍之介、樋口一葉…いずれも知らぬ人はいない日本の文豪たち。作家として名声を得た一方、その晩年はどのようなものだったのでしょうか?文豪たちの「死」・・・そして今際の際(いまわのきわ)の「最期の言葉」についてオムニバス形式でお届けします。

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芥川龍之介「人生の戦いに負けた時は、僕のように自殺せよ」

芥川龍之介
(小説家、1892年 - 1927年 享年35歳)
死因睡眠薬自殺
最期の言葉「人生の戦いに負けた時は、僕のように自殺せよ」

芥川の『遺書』から、自分の子どもたちにむけての一言がコレです。

作品として書かれた『遺書』にしても、実に強烈な表現です。

妻に向けては「いつもの睡眠薬を飲んだよ」と言ってから眠り、もう起きることがなかったともいいます。

芥川が睡眠薬の過剰摂取によって亡くなったのは1927年7月24日の朝でしたが、その何日も前から、睡眠薬を大量摂取してウツラウツラしていた姿が目撃されています。

睡眠薬自殺するには、睡眠薬を大量摂取する必要があります。

しかし急に大量に摂取しても吐いてしまうので、そうならないために死に支度をしていたのでは・・・・・・と、芥川と同じ夏目漱石門下の作家・内田百閒(うちだひゃっけん)は後に書いています。

「見抜くくらいなら、止めてやればいいのに」と思いますが・・・・・・

菊池 寛

芥川の「親友」の菊池寛は「君が自ら選び 自ら決したる死について 我等 何をか云はんや(意訳:芥川くん、自殺は君が自分で決心して行った結果だから、われわれには何もいう権利はない)」と弔辞で言っているように、もはや放置して見守るくらいしか出来なかったのかもしれませんね。

ちなみに通俗小説に対し、ハイレベルな文学小説との意味で「純文学」という言葉を発明したのは、菊池寛です。

菊池はその純文学作家たちの登竜門となる文学賞を設け、それに芥川賞と名付けました。

しかし芥川は自身が書かねばならない「純文学」のために長年、神経をすり減らして執筆を続け、心を病んでしまっていたのです。

その苦しみかたを知っている妻は芥川の死に顔にこう語りかけたそうです。「お父さん、(苦しみから解放されて)よかったね」。

樋口一葉「別に騒がないほうが良い」

樋口一葉
(小説家、1872年 - 1896年 享年24歳)
死因肺結核
最期の言葉「別に騒がないほうが良い」

24歳の若さで、樋口一葉は亡くなっています。

父と兄を早くに亡くし、17歳の若さで樋口家の世帯主になった時、小説を書いたら金になるかもしれないと思って執筆を始めたのが、彼女の作家人生のはじまりだったと聞いたら驚くかもしれませんね。

しかし現実はあまくなく、愛した男性・半井桃水(なからいとうすい)とは身分の違いなどで結ばれず(というか、半井には愛されなかったというのがいちばん正しいかも)、玉の輿ねらいの結婚の機会も訪れず。

ちなみに、玉の輿について補足すると、夏目漱石の兄・大一との結婚話があったのですが、樋口家に借金されまくる未来を恐れた夏目家から破談されたのでした。

挙句の果てには作家業のかたわらに雑貨店などを経営したりするのですが、それもうまくいきませんでした。

実に不幸度が高い人生だったのですねぇ。

あまりに貧しいため、胸を患っても医者にすら長い間、行けずにいたのです。

亡くなった1896年の8月ごろ、樋口一葉の才能を見込んでいた森鴎外が、彼女が病院にも行かずに療養していることを放っておけなくなり、「名医」二人を彼女の家に送ります。

しかし診断の結果は「肺結核末期」。

もはや手の施しようがありませんでした。

しかし本人は傍目には落ち着いたもので、夏頃に書いたと思われるノートには「病人でも夏は暑い」などと書き込んでいます。

亡くなる直前に駆けつけてきた作家仲間に「私が死んでも(略)裏の豆腐屋のおじいさんが死んだも同じことだから、別に騒がないほうがいい」と言いのこし、静かに亡くなってしまったようです。

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