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コラム エピローグ <偉人たちの最期> presented by 雅倶楽部 2018年12月11日掲載

平安時代の葬儀トレンドを無視した「平清盛」…遺言は『3日以内に生き返るかも(葬儀はもっと後にして!)』

史上初めて太政大臣(=朝廷の最高権力者)の地位を得た武士「平清盛」。
徳川幕府滅亡までの700年間、武家政権の礎を作り上げた人物の死に迫ります。

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史上初めて、太政大臣(=朝廷の最高権力者)の地位を得た武士となった平清盛。

その後、徳川幕府が滅亡するまでの約700年間に及ぶ、武家政権の礎を作った人物です。

白河院御影、白河法皇像(成菩提院御影)国立国会図書館蔵 / 作者 不明Unknown author [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

清盛の異例の出世ぶりには、平安時代後期の日本を支配していた白河法皇の私生児(いわゆる御落胤)だからという説がささやかれ続けました。

清盛が白河法皇の御落胤説については同時代人の証言がなく、史実的なバックグラウンドに乏しいとされます。

歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹

御落胤…

おとしだね、らくいん。「身分の高い男性が、正妻以外の身分の低い女性に生ませた子」というのが辞書的な意味となります。この意味で、側室が産んだ子も「落胤」に相当するが、口語的には「側室ですらない、一時的な関係しかなかった女性が産んだ子」を御落胤と呼ぶ傾向が強い。

ちなみに「一夫多妻制」という単語があるため、側室も妻の一種であると考えられがちだが、正確には違う。高貴な男性の家族にとって側室は家族ではなく、使用人でしかない。

しかし、両者には特別といってもよい絆がありました。
清盛が生まれた平安時代後期、勢いをもりかえしつつあった天皇家と、公家勢力のトップである藤原摂関家は政治的に対立していました。

朝廷から様々な実務・軍務を任せられて地方に下り、経済的に豊かになっていった平家や源氏といった武士たちも権力争いに加わり、朝廷関係者の既得権益を切り崩そうとしていたのです。

白河法皇は、(伊勢)平氏の「棟梁(=リーダー)」で、教養高く、莫大な財産を持っていた平清盛の父・忠盛に目をかけていました。

白河法皇と平清盛の父・忠盛の間を結んだのが、一説に白河法皇の寵愛を受け、のちに平清盛となる子供をお腹に宿した「女房(=侍女)」です。

要するに白河法皇は自分の愛人女性(しかも自分の子を妊娠中)を、目をかけている平忠盛にプレゼントしたわけですね。

現在では理解しがたい人間関係かもしれませんが、男性同士の「関係」を強固にするため、この手の女性のやりとりは日本史の中で繰り返され続けてきましたから、もし白河法皇の血を清盛が本当に引いていたところで、それはとくに不思議でもないのです。

日本初の貨幣経済を導入

若き日から清盛はきわめて優秀で、後世の武士たちにはないビジネスセンスがありました。

海外貿易(日宋貿易)で富を築き、日本で初めて貨幣経済を導入していますからね。

しかし、そんな常識におさまらない存在の清盛は、『平家物語』などの中で徹底的に悪役として描かれ続けています。

また、優秀なリーダー・清盛に率いられた平家一門が朝廷の要職をほとんど独占するにいたっては世間の反発は大きくなりました。

とくに治承4(1180)年2月、平家出身の女性・平滋子を妻にしていた高倉天皇が、二人の間に生まれた皇子・言仁親王(のちの安徳天皇)に譲位すると、公家・寺社、そして平家の周辺以外の武士勢力が、いっせいに立ち上がり、日本各地で平家打倒の反騎がひるがえるようになります。

そのさなか、養和元 (1181) 年閏2月4日に京都・九条河原町の平盛国の屋敷で病気静養中の平清盛が亡くなりました。

マラリアと推察される熱病に冒されていたようですね。
享年64歳(数え年)でした。

『平家物語』によると、すごい高熱が出た清盛の身体を冷やそうと比叡山から汲んできた水をかけてやると、水蒸気が出たとか、7~8メートル以内には暑くて寄れなかったとか、オーバーな記述が出てきますが、ひどく苦しんだ最期であったことはわかります。

清盛唯一の希望「三ケ日以後葬の儀あるべし」

『吾妻鏡』吉川本 右田弘詮の序文

さて、清盛のように、天皇家の代替りすら左右するだけの権力の持ち主の葬儀は、というと、実は葬儀らしい葬儀は行われていないようです。

『平家物語』では清盛は妻・時子にこんな「葬儀無用」的な遺言を残したといいます。

「私が死んでも、丁寧な供養は要らない。それよりも(平家に反旗を翻す者のリーダーである)源頼朝の首を討ちとり、私の墓前に備えなさい」

……しかし、鎌倉幕府の公式史『吾妻鏡』にも、この清盛の遺言の内容を裏付けるデータが残っているのです(養和元年閏二月四日条)。

該当箇所を抜き出してみると

「三ケ日以後葬の儀あるべし。遺骨においては播磨国山田法花堂に納め、七日ごとに形のごとく仏事を修すべし。毎日は修すべからず。また京都においては追善をなすべからず。子孫はひとえに東国帰往の計を営むべし」

「三ケ日以後葬の儀あるべし」……自分が死んだあと3日間は、葬儀をしてはいけないと命じているのは、生への執着と考えてもよいかもしれません。

一日も早く葬儀してしまうように(参考『平安貴族の遺言ナンバーワンは「3日以内に埋葬して!」だった?!』)、と言い残す人が多い中で、筆者には興味深く思われます。

平安時代では生から死へは、ゆるやかに状態が移行するものだと考えられており、いったん抜け出た魂も、祈禱などで身体に戻ってくるかもしれないとされていました。

Akashi Bridge
作者 Tysto [GFDL (http://www.gnu.org/copyleft/fdl.html), CC-BY-SA-3.0 (http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/))], ウィキメディア・コモンズ経由で

「遺骨においては播磨国山田法花堂に納め」以下の部分ですが、山田は、現在なら明石海峡大橋の付近の景勝地です。

清盛自慢の別荘「山田御所」があった場所でした。

シンプルな遺言に垣間見える人生観

興味深いのは、清盛が自分を「手厚く葬ってほしい」とまったく要求していない点ですね。

平清盛はあくまでリアリストで、極楽往生の希望も薄く、死後の世界の存在すら信じていなかったのかもしれません。

厳島神社など寺社の建立や、自身を含め、一門の人々に写経させた「平家納経」の制作など、宗教美術への情熱も知られますが、煎じ詰めれば、美しいものを作ることで平家の権勢を誇りたい「だけ」だったのかも、と思われるのです。

だからこそ自分が死んだら、遺体はとりあえず「播磨国山田法花堂」に葬り、そこそこに仏事はするだけでもよい……などと言ってしまうのでしょう。

平清盛の遺言はシンプルですが、生身の人生観・生死観がすべて出ており、興味深いのです。

ちなみに『吾妻鏡』で清盛が遺骨の埋葬場所として命じた「播磨国山田法花堂」ですが、現在ではどの寺院を指しているのかよくわかっていません。

現在の神戸市垂水区西舞子町付近であるともいわれますが、「山田」を「輪田」の書き間違いだと主張する人もいます。

そうすると現在の能福寺(兵庫区北逆瀬川町)あたりだという推論につながるそうです。

しかし能福寺の近辺でも「清盛の墓」という伝承を持つ遺跡が複数点在しており、「確実にここだ!」という墓所は判明していません。

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神戸の平清盛の墓、平相國廟(へいしょうこくびょう)、十三重塔(じゅうみえとう) / 作者 Jnn。 [GFDL (http://www.gnu.org/copyleft/fdl.html), CC-BY-SA-3.0 (http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/)], ウィキメディア・コモンズ経由で

能福寺の周辺には、弘安9(1286)年に鎌倉幕府の重鎮・北条貞時の手によって作られた十三重の塔があります。

これが長年「清盛塚」と呼ばれ、清盛の墓だとされてきました。

しかし、大正時代に調査を受けたときに人骨などが発見されず、少なくとも清盛の墓ではないと明らかになりました。

そもそも西大寺の僧・叡尊(えいそん)との関係が深いと現代では推定されています。

平安時代後期には、お墓参りなどの風習もいまだに一般的ではなかったにせよ、それでも平清盛のように歴史を変えた、そんな大人物のお墓の場所すら、わからなくなっているのには無常を感じてしまいますね。

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